ぎんいろ まひる編

10 そら




 小学校の廊下って、学年で匂いが違うみたい。

 めったに来たことのない高学年の廊下。そこを通ってB棟の階段を駆け上がると、後ろから私の名前を呼ぶ声がした。
「まひる!」
 聞こえないふりしようとしたのに何回も大きな声で叫ぶから、恥ずかしくなって立ち止まった。
「どこ行くんだよ。もうすぐ昼休み終わりだぞ」
 あっという間に私に追いついた蒼太の、薄茶色の髪が汗でびっしょり濡れている。男の子って皆、晴れてても雨が降っている中で遊んでたみたいになる。
「……屋上」
「先生に見つかったら叱られるぞ」
 中庭でサッカーしてたはずなのに、何でここにいるんだろ。
「蒼太も一緒に来る?」
 私を睨んだまま返事をしない蒼太を置いて、また階段を上がる。今度は一歩一歩慎重に。踊り場の窓から蝉の鳴き声がした。見上げると空は真っ青。きっと、ずっとずっと上の方まで見えるはず。
「何しに行くんだよ」
 結局ついて来た蒼太の質問に、今度は私が返事できなかった。だって、どうやって説明したらいいのかわからないよ。
「ちっ、五年がこっち見てた。怒られるかもな。行くぞ」
 追い抜いた蒼太が私の腕を掴んだ。二人で一気に駆け上がる。
 一番上の、もう行き止まりの所にドアが見えた。あと、もう少し。息切れがしたその時。
「こらー! 何してるの、君たち!」
 五年生の先生が来て、職員室に蒼太と一緒に連れて行かれた。
 私たちの担任の先生も、五年生の先生も、あまり怒らなかったけど、どうして屋上に行こうとしたのか、その理由は聞かなかった。


 裏門を出たところで、ちょうど蒼太に会った。珍しく一人みたい。紺色のランドセルを手に持って上に投げたり、キャッチしたあとは遠くまで投げて走って拾ってる。男子ってああいうことばっかりしてるけど、ランドセル汚れちゃわないのかな。
「あれ? まひる今日はこっち? 家に帰るんだ?」
 私に気付いた蒼太が駆け寄ってきた。
「うん。お父さん早めに帰って来れるから、お預かり教室は行かなくていいって」
 蒼太は一人でお留守番が出来るから、お預かり教室は二年生までしか来ていない。私は三年生になっても、一人でお留守番は絶対に駄目とお父さんが言うから、まだお預かり教室に通っていた。
 お日様が暑いから、木陰を探しながらその下を歩く。夏の影って、春よりも秋よりも冬よりも、真っ黒に見える。
「さっきごめんね? 先生に叱られちゃって」
「それは別にいいけど……。なー、お前この前から変だぞ? ジャングルジムの天辺とか、のぼり棒の上も、登ったらそのまま全然降りてこないし。何なんだよ」
「高い、ところ」
「は? なんて? 声小さくて聞えない」
「高い所に行きたいなあって、思ったの」
 顔を上げて空を見る。青くて眩しい空。それよりも、もっともっと上の方に。
「お前、まだ水筒の中身残ってる?」
「いっぱいあるよ」
「少しくれよ。俺もう学校で飲んじゃった」
「いいよ」
 ランドセルを背負って、私の手から水筒を受け取った蒼太は、ぱかっと蓋を開けてごくごくとお茶を飲んだ。
「サンキュ。じゃあ行こうぜ」
「行くってどこに?」
「この辺で一番高い所。俺知ってるから」
「一回お家帰らないの?」
「家帰ったら時間なくなるだろ。まひるのお父さん早く帰ってくるなら、今の内に行った方がいいって」
「遠いの?」
「そんなに遠くない。時計台があるの知らない?」


 カラスが鳴いてる。ずいぶん歩いたみたい。足がくたびれてきた。水筒のお茶も、もうないよ。
「あっれー? この辺だと思ったんだけどなあ」
 蒼太が学校の帽子を振り回しながら言った。首のところのゴムが切れそうなくらい伸び伸びになってる。あんなにしちゃったら、お母さんに叱られそう。
「ねえ蒼太、五時のお知らせチャイムが鳴ってから、いっぱい時間が経っちゃったよ。もう帰ろう。私、また今度でもいいから」
「う、うーん。帰るっつってもさ、俺……」
 ふと、マンションとマンションの間に大きな建物が見えた。緑色の三角の屋根で、上の方に時計がついている。
「あ、蒼太! あれじゃない? あの建物!」
 時計の時間は二時。止まってるみたい。
「そうだ、あれだ! よし、あそこに向かって行こう!」
 この辺、マンションが多いから見えなかったんだ。でも、そこに近付こうとして角を曲がったり、ぐねぐねしている道を歩くたび、またその建物はどこかに隠れてしまって見えなくなって、全然たどりつけなかった。
「やっぱり帰ろうか」
「まひる、俺、帰り道わかんね。あ、すみませーん」
 蒼太は突然、そばを歩いていた人に話しかけた。少し長いスカートをはいて、髪の毛をひとつに結わいた優しそうなおばさんは、蒼太の質問に答えてくれた。
「時計台なら知ってるけど、あそこに行ってどうするの? 立ち入り禁止なのよ?」
「え!?」
「そんな……」
 蒼太のびっくりした声と、私の涙がこぼれたのが同時だった。せっかく来たのに。せっかく上れると思ったのに。
「そこに行きたかったの? 可哀想だけど、でも本当に入れないし、それに学校帰りでしょう? もう遅いし、まずはお家に帰らなくちゃ。もうすぐ七時になるわよ?」
「お家、わ、わからな、い、う、うう……」
 時計台に入れないこと。お家がわからないこと。お父さんが早く帰ってくるのに何も言わないでここに来たこと。とっくに六時を過ぎてたこと。全部が心を痛くさせた。
「まひる泣くなよ。おばさん、ここ何丁目? わかったら俺ら帰れるから平気だよ。教えて」
「そうねぇ。でももう暗くなってきたし、心配だから一応交番へ行きましょう。お巡りさんに地図見せてもらおう。すぐそこだから」

 知らない町の交番で、お巡りさんが私と蒼太のお家に電話を掛けてくれた。ここまで連れてきてくれたおばさんは、自分の住所をお巡りさんに言って、私たちにバイバイをした。
 お巡りさんから、特別だよ、と飴をふたつずつもらった。私はいちご味とグレープ味。蒼太は迷って迷って、やっと決まったのがコーラ味とマスカット味。
 グレーの椅子に蒼太と二人で座って、ぐるぐる回りながら交番の中を見た。大きな地図が貼ってある。お巡りさんは何かを書いたり、調べたりして忙しそうだった。
 いちご味の飴を口の中で噛み潰した時、交番へ誰かが飛び込んできた。あんまり見たことのない、怖い顔をしたお父さん。お巡りさんに挨拶をしてすぐに、私を見た。
「まひる! 何してたんだ、こんなに遅くまで! お父さん心配しただろ! 心配で……」
 お父さんの手が私のほっぺに当たった。ぶたれたと思ったのに、優しくぽんぽんってされて、それがあったかくて、だからまた……涙が出た。
「ご、ごめ、なさい」
「違うんだ! 俺が悪いんだよ、まひるのお父さん。俺が連れてくって言ったのに、道忘れて迷ったんだ。だからまひるは全然悪くないんだよ」
 そうか、と言ってお父さんは蒼太の頭を撫でた。
「どこに行きたかったんだ?」
 私の前にしゃがんで涙を拭いてくれるお父さんに、正直に答えた。
「……この辺で、一番高い所」
「なんで?」
 学校でも蒼太に聞かれて答えられなかった。だって言ってしまったら、何だか願いが叶わなくなってしまいそうだから。しゃべった途端に、ふ、って大切な何かが消えてしまいそうだから。
「言わなきゃわからないだろ? まひる」
「おじさん、違うんだよ。まひるはきっと……」
 その時、蒼太のお母さんが交番に入って来た。お巡りさんとお父さんで、蒼太のお母さんに説明してる。
 私もその前に行って、頭を下げた。
「蒼太のお母さん、ごめんなさい。私がいけなかったの」
 大丈夫よ、と蒼太のお母さんは優しい声で言った。
「でもね、まひるちゃん。学校の帰りに二人だけで勝手に行っては駄目。一回お家に帰って、どこに行くのかメモに書いておくとか、誰かに言っておくとかしないと、皆心配するからね?」
「はい」
「だーかーらー、俺が悪かったんだっての!!」
「蒼太、あんた今日帰ったらお父さんに、よーく叱ってもらうからね! 今月何回目よ、もう!」
「うへー。あーやだやだ。今日俺、まひるんちに泊まろうかな〜。明日土曜日だし」
 調子に乗らないの! と蒼太はお母さんにげんこつをもらった。笑ったお父さんは蒼太に顔を向けた。
「ありがとうな、蒼太。今度皆で遊園地に行こうか。もうすぐ夏休みだし」
「え!」
「大きな観覧車があるところにしよう。高い所まで登れるぞ」
 今度は私を見て笑ったお父さんに、小さな声で聞いてみる。
「本当に?」
「ああ、本当だ。最近、どこにも連れて行ってやらなかったもんな」
 やったやったー! と蒼太と両手を繋いで喜んだ。嬉しいな。お巡りさんも笑ってる。
「あの、僕が連れて行っても全然構わないし、もしよければ皆で行きません? その方が楽しいかも」
 お父さんが言うと、いいですねぇ、と蒼太のお母さんが頷いた。蒼太がよっしゃーとガッツポーズをして、また私に笑いかける。
 観覧車って、大きくて円になってて、ゆらゆら揺れる箱に乗るんだよね? 一番高い所は、きっと……。
「まひる、空の近くまで行こう。そしたら、何かわかるかもしれない。そうなんだろ?」
「うん」
 お父さんが私の思っていたことを先に言ってくれた。
 交番の外に出た。お父さんと蒼太のお母さんはお巡りさんにお礼を言っている。見上げると、暗くなった紺色の空に星が三つ。早く観覧車に乗りたい。

 空の近くまで。
 お母さんのいる空の近くまで、行ってみたい。




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