ぎんいろ 朋美編

1 あいさつ




 廊下を春風が通り抜け、肩まで伸びた髪がさらわれて頬へ張り付き、埃が目に飛び込んだ。

 教室の入り口で立ち止まり、ミニタオルを取り出した瞬間、バッグは手から離れて足元に落ち、中身を床へばらまいてしまった。
「あーもう。……痛いのに」
 ミニタオルで目を押さえながら、片手で落ちた物を確かめる。ふと、散らばった物へ影が落ちた。
「大丈夫?」
 頭の上から男の人の声。
「あ、はい。すみません。平気です」
 こすってぼやけた視界を、隣でしゃがんで拾ってくれたその人へ向ける。彼は私の顔を見て言った。
「あれ? 浜野はまの?」
「え?」
 一秒ごとにはっきりと見えてきたのは、意外なことに高校の同級生の顔だった。
佐伯さえき、くん?」
「うん」
「びっくりした。この講義取ってるの?」
「そう。面白そうだったから、この教授」
「私も」
 ほとんど話したことがない人と、自分でも驚くほどすらすら言葉が続くのは、入ったばかりの大学で、知った顔を偶然見付けた嬉しさからだった。

 ノートを拾ってくれた佐伯くんと、人けもまばらな教室へ入り、何となく隣へ座った。とても広い部屋。緊張感を誘う初めての匂い。横長の机。前方にある巨大な黒板と三つのホワイトボード。開いている窓は大きく、外に並ぶ樹々の新緑が目に柔らかい。鳥たちの甲高いおしゃべりの声が響いていた。
「大学一緒だったんだね。学部も。私、全然気付かなかったよ」
 高校二年の時に同じクラスだった佐伯くんとは、全くと言っていいぐらいに接点がなかった。友達関係も、席も、部活も、委員会も、ほとんど関わった記憶がない。筆記用具を取り出して、どんなことを話そうかと考えていた私を、隣に座る彼は机に頬杖をついて、じっと見ていた。
「どうしたの?」
 次々と入ってくる生徒たちで、周りの座席が埋まっていく。制服ではないことに、ようやく慣れてきた、この頃。
「何でもない。これからよろしく」
 人懐っこい笑顔を見せられて戸惑う。こんな笑い方する人だったっけ?
「うん。こちらこそ、よろしく。わかんないとこ全部教えてね」
「自分でやれってーの」
「あた」
 佐伯くんに頭をぺんと優しく叩かれた途端、入学してからの数日、薄く纏わりついていた私の不安が、嘘のように綺麗に消えてしまった。
 知らない人たちの中で背筋を伸ばして、新しいノートへ文字を綴り、落ち着いて前を向くことが出来たこの時のことを、きっと私はいつまでも忘れない、そんな気がしていた。



 入学してから数か月、慌ただしい時が息つく間もなく過ぎて行った。
 キャンパス内に出来たオープンカフェの木陰にあるテラス席へ座り、ミルクを入れたアイスティーを飲み、お気に入りの手帳に予定を書き込んだ。まだ暑い日差しが残るけれど、九月も終わりの風は時折秋らしい涼しさを連れながら、爽やかに足元を吹き抜けてくれる。
 木漏れ日が消え、濃い影が手帳に広がった。前にも、こんなことがあった。デジャヴのような感覚を持て余してぼんやり顔を上げると、今思い出していた人、佐伯くんが私を見下ろしていた。
「浜野って友達いないの?」
 私の前にある椅子に座った彼は、荷物を置いてテーブルに肘をついた。振動でアイスティーのグラスが僅かに揺れる。思ってもみないことを言われて急激に顔が熱くなった私は、反抗するように彼を睨み付けた。
「い、いるよ……! 佐伯くんみたいに、あっちこっちで騒いでるわけじゃないの。たくさんじゃないけど、少ないけど、ちゃんといるんだから」
「そうなんだ、ごめん」
 ムキになって嫌な言い方をしてしまったのかもしれない。たまに見かける佐伯くんは、いつもいろんな人と楽しそうに笑っていた。そんな彼は私にもよく声をかけてくれた。講義で一緒になれば隣に座ったり、会うたびに新しい情報を教えてくれたり。
 さっき言った通り友人はいるけれど、私は彼とは違ってマイペースだから一人の時間が多いのは確かだった。自分の不器用さを誤解されているようで、佐伯くんに指摘されたのが恥ずかしく思えた。
「だったら良いんだけどさ」
「……なんで?」
「心配だったから」
 目の前で顔を伏せた彼が、ぼそっと言った。
「ぼっちだったら心配じゃん。なんか」
 ことん、と胸の中で何かが動き、広がったばかりのもやもやとした複雑な気持ちは瞬く間に溶けて消え去ってしまった。入学して間もない頃再会したあの時と同じように、一瞬で心が軽くなったのがわかる。
 俯く佐伯くんを改めてよく見た。柔らかそうな黒髪は無造作に散らしていて、彼によく似合ってる。手が骨張っていて大きい。背は私よりも二十センチくらい高い?
 見つめていた私の視線い気付き、目が合った彼は眉を寄せた。
「なに? 何か付いてる?」
「ううん、違うの。……ありがとう」
 今度は佐伯くんが私の顔を見つめた。いつもみたいに笑うのではなくて、口をへの字に結び沈黙している。数秒後、突然思い出したように鞄を持ち上げ、そこへ手を突っ込み、がさがさとペンケースを取り出した。
「あのさ、日曜ヒマ? バイトとかある?」
 カチカチとシャーペンを鳴らしては芯を出し、テーブルに押し付けて引っ込めてはまた芯を出し、何度もそれを繰り返している。
「ううん」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれない?」
「どこに?」
 佐伯くんは私の質問に答えずそっぽを向き、左手で首の後ろをさすりながら、右手で今度はシャーペンをくるくると回し始めた。
「佐伯くん?」
「……えーと、図書館」
「いいよ。何か調べもの?」
「マジ!?」
 勢いよく立ち上がった佐伯くんは、その拍子に落として転がしたシャーペンを慌てて拾った。彼の大きな声に、離れた場所にいる人たちもこちらを見ている。
「な、何? どうしたの?」
「や、何でもない。ごめん、ちょっと待って」
 ノートを取り出した彼は紙をびりびりと破き、そこへ殴り書きをした。
「はい、これ。待ち合わせ場所と時間」
「うん」
「じゃあ日曜日よろしく」
「よろしく」
「ほんとにほんとにほんとーに、よろしく」
「うん。……なんか、変なの」
 次の講義に遅れる、と言った佐伯くんは鞄へ荷物を詰め込んで、慌ただしげにそこを後にした。

 静かになったテーブルの上へ、木漏れ日がゆらゆらと零れ続けている。汗を掻いたグラスの中で溶けた氷がからん、と音を立てた。
 渡されたメモには、ここから随分と離れた場所にある駅の名前が記されていた。



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