短編 小説




 年下の彼に誘われて、蛍を見に夜の川に訪れた。

「足下気をつけて」
 川の傍は昼間はまだしも、明かりもほとんど点いていない夜のこの場所は、足下が滑り少々危ない。
 差し出された手に戸惑いを感じながらも、ゆっくりと自分の手を彼へと近付ける。

 ここは年に一度、放流した蛍の幼虫が成虫になり、飛び交う姿を数日間だけ見る事が出来る場所。綺麗な川に小さな細い糸の様な湧き水が、山肌からいくつも流れ込んでいる。

 指先が触れ合っただけで、引っ込めてしまった。彼が振り向く。
「大丈夫? 先輩」
「あ、うん」
 ついこの間まで先輩、後輩だったのに今は彼女と彼氏。今までと違ってどう接したらいいのかわからない。好きだと言われた時の彼の真剣な目を思い出し、引っ込めた手を握り締め、後ろへ隠してしまった。

 平日の夜だというのに結構人が来ている。
 彼を見失う事は無いけれど、やっぱり手を取った方が良かったのかもしれない。

 離れないように少しだけ彼に近付いてみる。
 少し幼さの残る綺麗な横顔に、細身の身体、そんなに背が高いわけでもない彼はあまり男っぽさを感じない、そう思っていた。けれど傍に寄ると私よりも高い目線に、目の前のシャツ越しにわかる柔らかさの無い肩に、自分とは違う事を気づかされ、思わず目を逸らしてしまった。

 さらさらと音を立てる川の気配が近付いて来た。
 ますます人は増え、何度かぶつかってしまう。その度に彼は振り向き、庇うように横に立ってくれた。そしてまたぶつかりそうになった時、彼の手が私の肩を抱き寄せた。彼の香りに眩暈がし、身体中に緊張が走り身を硬くする。

「先輩……俺に触られるの、そんなにいや?」
 少し不機嫌に感じた声が届いた途端、ふいっとそっぽを向かれ、彼の身体も離れていってしまった。

 蛍が光っている。
 薄い緑色の光を発し、あちこちで点滅していた。
 傍にいた人達から感嘆の溜息がいくつも聞こえる。これ以上川に近付かないようにと立てられている柵に手をかけ、一人俯きじっと下を見た。

 だってどうしたらいいかわからない。
 好き、なのに。
 どうやって近付いたらいいかわからない。

「先輩」
 すぐ後ろで声がして、再び彼の香りが届いた。
 心臓がぎゅっとつかまれた様になり、何故か泣きたくなってしまう。

「そんなに下向いてたら、蛍……見えないでしょ?」
 低く優しい声の彼の両手が、自分の手の横に両側から同じ様に柵に添えられたのを見た。
 真後ろに立つ彼はそれきり何も言わない。さっきの事、怒っていないのだろうか。触れそうで触れない位置にある彼の手に、自分からゆっくりと近づけてみる。

 心臓の音が聞こえてしまうのではないかと本気で心配になる。
 けれど……彼は優しい。自分の方が年上だけど、彼の方がずっと大人だ。もし本当にこの音が聞こえてしまったとしても、私が彼よりずっと幼いと知られても、きっと何でも無い事のように受け止めてくれる。

 自分よりも大きくて骨ばった手に触れると、彼はその手をそっと握ってきた。私の体温よりも少しだけ高い暖かい温もり。
 後ろにいた彼は隣に移動し、今度はしっかりと私の手を自分の手の中に収めた。

 顔を上げると彼の視線と重なる。彼は目を細め嬉しそうに微笑んでいた。その表情につられて自分も小さく微笑む。恥ずかしくて、もどかしくて、けれど嬉しくて、くすぐったい様な不思議な気持ち。

「ゆっくりで……いい?」
 蛍を見つめて囁くように言ったから、彼に届いたかはわからない。けれど繋がれた手に力がこめられたから、伝わったのかもしれない。


 あちこちで見える蛍の点滅の様に、心の中でちらちらと綺麗な光がたくさん輝き始めた。









  
 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 拍手、感想などいただけましたら大変励みになります。
 お返事はブログにて。

 ナノハ


-Powered by HTML DWARF-