泥濘−ぬかるみ−

(24)自戒




 試験が終わり元の席に戻っても、春田と自分の関係は何も変わりはしない。いつの間にか、すぐそこまで春休みが迫っていた。

 もうどれだけ春田と話をしていないだろう。
 昼休み、彼女のいない教室を見たくなかった自分は、自販機へ行きコーヒーを買って中庭に出た。
 曇り空の下、かなり寒いその場所には人も来ない。

 無造作に置かれていたベンチに座り、壊れかけている背もたれに寄りかかると、それは嫌な音を立てて軋んだ。
 熱いコーヒーを口に付け、遠くにある花壇をぼんやりと見つめる。いつの間にか足音が近付き、ベンチが揺れた。
「よいしょっと」
「……なんだよ」
「別に。一個食う?」
「いらない」
「あ、そう」
 突然現れた葉山は俺の隣に座り、購買で買ったらしいパンを食べ始めた。
「三島寒くないのかよ、こんなとこで」
「寒いに決まってんだろ」
「じゃあ教室で飲めばいいじゃん」
「……」
「もしかして嫌われてんの? みんなに」
「うるせえな、一人で飲みたいんだよ。あっち行けよ」
「すぐあっち行けとか言うんだよな。春田さんにも言ってたじゃん、この前」
 ぶつぶつ言いながらも、何故かその場を離れない葉山に問いかけた。

「別れたんだって? S女の子」
 チラリと俺を見た後ふいと顔を前へ向けた葉山は、大きな口を開けパンをかじりながら答えた。
「言っとくけど、お前に言われて別れたわけじゃないから」
「……春田がいたから?」
「まあ、そうだね。彼女のお陰」
「……」
「やっぱ春田さんはいいよ。俺が目付けただけのことはある」
 胸に突き刺さるその言葉と、嬉しそうに話す奴の顔に動揺したのを気付かれないよう、無理やりコーヒーを口に入れ、足下のコンクリートを見つめた。
「今日一緒じゃないのかよ」
「え?」
「春田」
 振り向いた葉山は俺の顔を見ながらもぐもぐと口を動かし、パンを飲み込んだ。
「お前、春田さんから聞いてないの?」
「……何を?」
 ペットボトルを手にした葉山は不機嫌な声で答える俺に向かって、可笑しそうに笑った。
「何でも知ってんじゃないのかよ?」
「……」
「もしかして、春田さんと口も利いてないんだ?」
「お前に関係ないだろ。春田と上手くいってんだったら、ほっとけよ」
「上手く、いってるかな。うん。前よりずっと上手くいってるな」
 缶を持つ手に力をこめる。
 惨めな奴だと笑いに来たのか、それとも春田はもう自分のものになったと自慢したいのか。
「……何しに来たんだよ」
 搾り出すような俺の声に、葉山は前を見たままゆっくりと答えた。
「春田さん、変わったと思わない? お前」
「……変わった?」
「わかんないなら図書室行ってみな。いいもの見れるから。多分まだいると思うけど」
「図書室?」
「そ、図書室。行って確かめて来いよ」
 葉山は残りのパンを手にして立ち上がり、その場を去った。

 腑に落ちない気持ちを抱えたまま、奴に言われた通り校舎へ入り、図書室へと向かう。
 重たいドアを開けた途端、古い本独特の匂いが届く。春田にここで宿題を教えたことを思い出し、何となくその場所へ視線をやった。

 小さな背中がそこにあった。春田は一人で大きな机に座り、下を向き本を見ながら何かをノートに書いている。
 声をかけるのも躊躇われるくらいの真剣な様子に、違和感を感じた。

 一瞬迷い、歩みを止める。
 葉山が言っていたのは本当に春田のことだろうか。自分の女を好きだという男を、わざわざ出向かせたことにも疑問が浮かぶ。
 それでも彼女の声を少しでも聞きたい自分は、後ろから静かにそこへ近付いた。

 まだ何かを答えてくれる筈だと、根拠の無い期待を抱きながら。



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