泥濘−ぬかるみ−

(20)葛藤




 通路に春田を残したまま部屋の扉を開けると、大音響が飛び出し同時に皆が一斉に振り向いた。

「悪いけど、俺先帰るわ」
 何事も無かったかのように笑いかけ、済まなそうに肩を竦めて見せる。後ろでゆっくりと扉が勝手に閉まった。
「え、何だよ三島」
「三島くん、なんでー?」
「やっぱ今日、バイト入ってくれってさ」
 自分が頼んだ飲み物へ手を伸ばし口をつけた後、鞄とマフラーを手にした。
「これ金。じゃあ」
 テーブルに札を置き、座っている飯島と目を合わせる。頷いた飯島を確認し、皆に背を向け再びドアノブに手をかけた。
「ああ、そうだ。葉山、今春田が廊下で困ってるから行ってやって」
「え、なんで?」
 奴の言葉に返事をせず、部屋から出ると視界の隅に春田が入った。その場を去ろうとする自分へ、通路に佇む彼女の視線が絡みつく。

「帰る気になった?」
 そちらを振り向き一歩足を踏み出すと、春田は肩を縮ませ後ずさりした。さっき彼女へしたことを思えば、その反応は当然かもしれない。
「……嘘だよ」
「……」
「俺が、お前のこと嫌いでこういうことしてると思う?」
「え?」
 春田が返事をしたと同時に扉が開いた。
「……春田さん? どうしたの?」
「全然、何でもないの」
 出てきた葉山と入れ替わるように、春田はその場を立ち去り部屋へ駆け込んだ。

 通路に残った葉山はこちらを見ている。その視線を受け止め、ズボンのポケットに手を突っ込んで壁に寄りかかり、無言で睨み返す。
「何だよ三島」
 人の良さそうな顔をし、その実、春田も飯島のことも馬鹿にしているこの男が許せなかった。
「葉山、さっきの話だけど」
「さっき?」
「女、紹介してくれんだろ?」
「ああ。いいよ」
「春田がいい」
「え?」
 一瞬聞き間違いをしたのかと自分の耳を疑う様な顔をして、葉山は顔を傾けた。
「春田がいいって言ったんだよ」
「……何言ってんの? お前」
 葉山は薄笑いを浮かべて、ゆっくりと近付いて来た。
「春田から離れろよ。他の女で十分だろ」
 突然葉山は顔を歪め、声を出して笑った。
「何でお前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ? 春田さんは、」
「北高男バスのマネだっけ、最近捨てたんだろ? 手出してすぐ」
 話を遮られ、自信に溢れていた葉山の顔は一転して青ざめた。
「それ、春田もだけどS女の子も勿論知らないんだよな?」
「……」
「お前マメだよな。部活もやってて忙しいのにさ。ああ、そうか。だから春田まで手が回らないのか」
 壁に寄りかかる自分を見下ろす葉山へ、今度はこっちが笑い返してやった。
「……何だよ、それ」
「部活が無い日も、春田とは駅までしか一緒に帰んないし? 日曜もそんなに会ってないんだろ? 他の女に忙しくて」
「……」
「ま、春田は鈍感だし、お前のこと好きで付き合ってんじゃないから、余計気付きゃしないよな。会う暇もないんだから、手の出しようも無いか。俺には都合がいい話だけど」
「……なんで」
 ひとこと言ったきり言葉の続かない葉山へ、低い声で告げた。
「何でも知ってんだよ俺は。……怖い?」

 バイトの帰りに、夜の公園で見かけた葉山と一緒にいた子は、S女の子ではなく、北高の男子バスケ部のマネージャーだったと、飯島の彼女がらみで最近それを知った。飯島の彼女は他校とも交友関係が広い。北高にいる友人がそのマネージャーに泣きつかれ、何とかならないかと相談してきていた。
 偶然とはいえ、葉山から春田を引き離したい自分にとっては、奴を黙らせるのに十分な話だった。
「春田は三橋と帰らせるから。この後、どうせ約束でもしてんだろ? 別の女と」
「……」
「じゃあな」
 何も言えずに立ち尽くす葉山を置き去りにし、そのまま店を出た。

 薄暗い空気の凍る夕暮れの街中を、首にマフラーを巻き足早に歩く。
 今頃、春田は部屋へ戻った葉山の隣に座っている。何も知らない奴のすぐ横で、俺がやった飴を口の中で転がし、甘ったるい匂いをさせながら。
  想像するだけで、悦びのあまり叫び出しそうになった。咄嗟に自分の喉元を押さえつけ我慢する。

 駅の改札を通り、地下鉄のホームで電車を待つ。
 ポケットから手を出し、春田を思い出しながら自分の唇へ親指をあてた。

 こんなことをしても、何も変わらないのかもしれない。いくら奴を叩いても、春田は葉山の傍にいたいと思うのかもしれない。
 卑屈な笑いを浮かべた自分が惨めで滑稽なのは、十分過ぎる程わかっている。最低なのは葉山よりも、この俺だ。

 わかっていてももう――自分を止められるものは春田以外にはいなかった。



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