泥濘−ぬかるみ−

(10)焦心




「三島くん、昨日メール見てくれた?」
 朝の冷え切った学校の廊下で、春田は俺の左側から顔を覗きこんでくる。

「今さっき見た」
「え、そうなの?」
「俺昨日忙しかったんだよ。帰ってすぐ風呂入って寝たから、全然気付かなかった」
「そっか」
「返事欲しかったんだ?」
「ううん。さっき見てくれたならいいの。くだらないことだし」
「くだらないなら、無駄にメールしてくるなよ」
「……無駄じゃないもん」
 呟いた彼女は首元に巻かれている俺のマフラーを大事そうに握っている。

「お前さ、他のマフラーしないの?」
 春田は口を閉じ、前を向いた。
「毎日同じのしてて、よく飽きないよな」
 確かめるように強調する。
「……飽きないよ」
「ふうん」
「三島くんだって、してる。ずっと同じの」
「買いに行くの面倒だし、どうせもうすぐ使わなくなるだろ」
「……そうだよね」
「……」
「もうすぐ暖かくなるもんね」
 その時、後ろから上履きの足音が追いついた。

「三島くん! おはよう」
「……おはよう」
 同じクラスの立石たていしという女が、春田とは反対に俺の右側へ並んだ。
「春田さん、おはよう」
「あ、おはよう」
 美人でスタイルもいい立石は男の間でも名前がよく上がっている。髪はストレートで長く背も高い。顔は大人びて、反対側にいる春田とは何から何まで対照的だった。
「ねえ三島くん、昨日何してたの? あたし見かけたよ。もしかしてバイト?」
「ああ、うん。見られたんだ」
「決まった曜日なの?」
「いや、不定期。曜日は決まってないよ」
「なんだ、三島くんいる日に行こうかと思ったのに」
「いなくても来てよ。売り上げ協力して」
「えーどうしようかなあ」
 耳障りな声に我慢をしながら返答し、チラリと春田に目をやる。
「私、先に行くね」
 春田は珍しく気まずそうな表情をし、小走りに一人教室へ向かった。その背中は、小さい。久しぶりに胸の奥が痛んだ。

「春田さんてちっちゃいよね。同じ学年に見えないし」
「……」
「何で葉山くん、あの子選んだのかな。三島くんもああいう子がいいの?」
「……何の話?」
「だって仲良くない? 三島くん、春田さんと」
 春田とはまるで違う、見たくもない媚びた目つきに悪寒が走る。
「そうでもないよ」
「えーほんとに?」
 腕をべたべたと触ってくる立石の手を即座に振り払いたいのを我慢し、一緒に教室へ入った。

 春田は期待に漏れず、待っていたかのように俺を見ていた。その視線を自分から外し、席に着く。何度も自分の左側に春田を感じ、嬉しさを隠しながら仕方無さそうに顔を向けてやった。
「何だよ?」
「う、ううん」
「言いたいことあるなら言えば」
「……三島くん、バイトしてるの?」
 最後の方は聞き取りづらいほど弱々しい声だった。
「してるよ」
「どこで?」
「……教えない」
「どうして?」
「何でいちいちお前に言わなきゃならないんだよ」
「……」
 俺の返事に彼女は口を引き結び、何故か目に涙を浮かべた。急激に艶を帯びた瞳に手を伸ばしたくなる。
「何だよそれ」
「……わかんない」
 呟き俯いた春田と同時に、動揺した自分も顔を逸らし黒板を見る。

 ただの、子どもと同じだ。
 気に入ったおもちゃを、他の誰かも自分と同じ様に気に入っていると感じた途端に焦る、それと同じだ。そこに相手を思い焦がれる気持ちは到底無い。
 そうとはわかっていても、その先にあるものへ期待をする。手に入れて誰にも渡さず常に傍に置きたいと、いつか思うだろう方へ賭けてみる。

 授業も終わりに近付いた頃、彼女は自分の教科書に指を当て、俺に示した。
「三島くん、あの……ここ」
「面倒だから休み時間」
「あ、うん。ありがと」

 最近、一時限目が終わった後の休み時間、葉山は春田の所へ来てそのままそこで話したり、廊下で立ち話をしていた。
 多分今なら俺が望んだ通りに春田は動く。

 ほんの少しだけでいい。春田の胸の奥に一握りの疑問を抱かせることができれば。俺のすぐ隣で、葉山が見ている目の前で、一瞬掠めていくだけでもいい。

 上手く片付けられる方法を、頭の中で反芻し続けた。



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