泥濘−ぬかるみ−

(8) 波紋




 駅で春田と葉山は別れ、それぞれ違うホームへ降りて行った。

 珍しく二人で帰るというのに、どこかへ寄ろうともせず急ぎ足で階段を下りて行く葉山に疑問を持ちながら、春田の後をついていく。
 彼女の手に傘は無かった。

 地下鉄に乗り、春田が降りる駅のホームへ離れた所から同時に降り立つ。気付かれないよう、制服の背中を見つめながら改札を出、階段を上る。ブレザーからはみ出している白いカーディガンが、ヒダのあるスカートを上から押さえつけている様子を遠くから確認し、一歩ずつ差を縮め、上りきった場所で彼女の真後ろに立った。

「三島くん? ……どうしたの?」
 一瞬空を仰ぎ、雨が当たらない事に驚き振り向いた春田が、俺の顔と差し出された傘を見つめて言った。
「無いんだろ。入っていけば」
「?」
「俺の傘」
「え……」
「ここからバス、歩き、チャリ、どれ」
「あ、歩きだけど大丈夫だよ。私、買うから」
「いちいち買うの無駄だろ。俺の気が変わらないうちに早く歩けよ」
「うん。ありがとう。ほんとにいいの?」
 嬉しそうに言った春田は、遠慮がちに俺の傘の中へ入って来た。
「そんな端っこじゃ濡れる」
 春田の腕を掴み自分の傍へ引き寄せた。傘の中に甘い香りが篭もる。一瞬緊張した彼女は、もう小雨になっている大通り沿いを俺と一緒に歩き出した。

「ね、お揃いだね」
 暫くして春田は俺の顔を見上げ、自分の首元に巻かれたマフラーに手をやった。
「当たり前だろ、俺がやったんだから」
「そうなんだけど、三島くんもそれちゃんとしてくるって思ってなかったから」
「お前にやったから、これしかないんだよ!」
「あ、そうか。ごめん」
 怒られつつも、彼女は楽しそうに笑っている。

 二つ信号を渡り、住宅街へ入った。狭い歩道の水溜りには、既に波紋が広がる様子は見あたらない。同じ様に気付いた春田が傘の外へ手のひらを出した。
「三島くん、もう雨」
「よく、好きでも何でもない男と一緒にいられるよな」
 彼女の言葉を遮り、呆れた声を浴びせ留まらせようとする。
「え……葉山くんのこと?」
「他に誰がいるんだよ」
 歩く速度を少し速め、傘を閉じるタイミングを外した。
「そんなこと無いよ。どっちかって言えば、好きな方だと思うし」
 彼女は鞄を肩に掛け直し、珍しくはっきりとした口調で答える。
「だからきっとこのまま一緒にいれば、ちゃんと好きになれるんじゃないかなって思う」
 頭の中を得体の知れない何かが叩いた。
「前にも言ったけど、何様? お前」
 否定、したい。
「だって葉山くんはいいって言ってくれたから」
 春田の言っていることを否定したいわけじゃない。
「だから?」
「だから好きになるよう努力したいし、一緒にいてみたいの」
 自分を、否定したい。
「自己陶酔もいいとこだよな」
「え、」
「自分に酔ってんだよ。こんなに思われてる私、って」
「何それ……」
「努力して好きになられても、嬉しくもなんともないんじゃないの、葉山は」
 こんな、自分の理想とは掛け離れた女を好きになった自分を。飯島の言う通りだとしたら、そんなことも見抜けない愚かな女を好きになってしまった自分を。
「俺そういう女、大嫌いなんだよ」
「……三島くんにそこまで言われたくない」
 寒い振りをして、空いている方の手をポケットへ突っ込む。彼女の言葉を聞いた途端、震え出したのを感じ取られたくは無い。死んでも。

「怒ってんの?」
「……」
 珍しく春田は俺に返事をしなかった。唇を噛み締め、頷く事も無い。
「へえ、怒るんだ。ほんとの事言われて」
 益々彼女は表情を強張らせた。
「確かに、三島くんの言う通りかもしれない」
「何が?」
「努力とか、そんなこと言われたって嬉しくないよね」
「……」
「でもわからないの。友達じゃなくて、特別に好きになるっていう気持ちが、よくわからない」
 春田は本気で困ったような顔をしていた。
「告白とかしたこともないし、もちろん付き合ったりもないし、だからそういう気持ちを教えて欲しいって思って……」
 強い風が吹き、傘の中にいる二人の耳の奥を鳴らす。
「俺が教える」
「え?」
「……」
「今何て言ったの?」
 春田は髪を押さえ、埃の入った片目を瞑りながら、俺を振り向いた。

 まだ、間に合うのなら。
 彼女の心の内側に少しずつ入っていき、滑稽で惨めな恥晒しの自分を悟られること無く、追い詰めていくことが出来るのなら。

「髪、ぐちゃぐちゃ」
 マフラーをやった時と同じ様に風に吹かれた春田の髪に手を伸ばし、直してやる振りをして頭の上に手を置き、そこにあった細い髪を一握り掴んだ。
「な……に?」
 彼女の唇から覗く怯えたような声と、指の間に埋め込まれた柔らかく頼りない感触に、胸の奥から怒りにも似た焦燥感が込み上げ苛まれた。味わったことの無い苦しみが広がり、身体中を支配していく。

「じゃあな」
 彼女から離れ、突き刺す様な視線だけを残し、傘を閉じてその場を後にし、元来た道を歩き出した。
 暫く進むと、足下の水溜りに光の差さない鈍い自分の影が映った。目障りな灰色の汚れた水は、傘の先で引き摺るとじわじわと濁り、さらに不快さを増しながら広がっていく。

 眠れない夜が、始まった。



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