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金曜日はピアノ


番外編 海の見える丘で




 梅雨に入る直前の、よく晴れた六月初旬。ピアノリサイタルの地方公演を終えた先生と合流した私は、その翌日、そこから近い母の眠る丘へと来ていた。白い猫は、妹たちに預けている。

「綺麗な場所だね」
「はい」
 先生は私が選んだ花を墓前へ置いた。今日は海に浮かぶ遠くの島まで目にすることができる。上空を飛んでいた海鳥が、大きな声で鳴きながら旋回している。
「私いつも、先生の家で何の香りがするんだろうって思っていました。これだったんですね」
「ああ。生前、祖母がよく使ってたんだ」
「父もここに、この香りを選んだんです」
 私が差し出した白梅のお線香に、先生が火を点ける。二人でしゃがみ、墓前に手を合わせた。
 立ち昇った細い煙の香りと潮風が混ざり、鼻先を掠めていく。そっと瞼を上げると、隣にいる彼はまだ目を閉じていて……私の母に何かを語りかけているように見えた。その姿が愛おしくて涙ぐんでしまう。


 丘の最寄駅から電車で海沿いを進み、三十分ほど揺られた場所で降りた。タクシーに乗り、海とは反対の高台を上って行く。
 林を抜けると、広めの駐車スペースの奥に二階建ての建物が現れた。一階はフレンチのレストラン。二階はホテルになっている。オーベルジュという、レストランがメインの宿泊施設だった。入口のガラス戸を押して中へ入る。飴色になったヘリンボーンの床板、清潔感のあるすっきりとしたインテリアの中に、アンティークと思われる小物や椅子がいくつか置かれていた。
 レストラン横のフロントで先生が受付を済ませる。スタッフに先導されてついていくと、ホテルへ続く階段ではなく、なぜか一旦外へ出て、裏庭のような場所へ案内された。穏やかな表情をした男性のスタッフが控え目な声で私たちに言った。
「こちらの小路を通っていただき、薔薇のアーチをくぐった先にございます。何か御用がありましたら、備え付けの電話でフロントまでお知らせください。お預かりしたお荷物は、あとからお持ちいたします」
「ありがとう」
「行ってらっしゃいませ」
 お辞儀をしたスタッフとはその場で分かれ、ぎりぎり二人が通れる幅の狭い道を進む。少し坂になっている石畳をゆっくりと上って行った。
 ピンクベージュの薔薇が咲き乱れるアーチをくぐると、白い外壁の平屋が現れた。
「可愛い……! 小さなお家みたい」
 ホテルよりも少し高台の位置にある、プロヴァンス風の建物。煉瓦色の屋根、いくつも並ぶ小さな窓、重厚な木製の玄関扉。横に黒い外灯がある。玄関に続くテラコッタの階段横にラベンダーと背の低いオリーブが植えられ、そよそよと風に吹かれていた。
「ここに泊まるの?」
「ああ。通常はレストランに併設したホテルに宿泊するんだけど、土曜日だけ一組限定でここを開放して泊まらせてくれる。公にはしていないらしいから、小声で説明したんだろうね」
 彼は渡されていた、黒く大きな鍵を鍵穴に差し込んでぐるりと回した。
「でも、今日は日曜日ですよね?」
「友人がここのオーナーと知り合いで、無理を言ってお願いしたんだ。ここに来るのは僕も初めてだからね」
 大きな扉を押して中に入る。
「公演後だし、君と二人でゆっくりしたかったんだ。レストランは仕方が無いにしても、プライベートで人に会うのは疲れるから、部屋くらいは、ね」
 去年の春にピアノリサイタルを成功させた彼は、その後、演奏を要望されることが増え、多忙に過ごしていた。あれから一年。先生と再会した私は、彼と共にあの家で暮らしている。白い猫も一緒に。

 備え付けの明るい木製のキッチンに、二人用のテーブルと椅子。花瓶にアーチと同じ薔薇が零れ落ちそうなほど活けてある。大きなベッドカバーは白地に細かな花模様が散りばめられた独特の柄のキルティング。木材と真鍮で作られたダイヤル式の電話がサイトテーブルに載っていた。コードが繋がれており、フロントと直結している。
「これも可愛い。飾りかと思ったのに」
「楽しそうだね」
「だって、何もかも全部素敵だから」
 屋根の付いた広いデッキテラスに出た。テラスの前は背の低い草花が茂るだけで遮るものもなく、遠くに小さく海が見えた。母の眠る丘から離れているけれど、あの海と吹いてくる風はきっと同じ。そのことが、私をとても安心させた。
「海が見える場所で大丈夫だった?」
「……はい」
「泣いてるの?」
 隣に来た彼の問いに顔を横に振る。胸がいっぱいで、なかなか口にすることができない。私の背中を押してくれたあの陽だまりと、潮風にそよぐ白い花びら。その母を感じようとしてくれた彼の優しさが、伝わってきたから。
「先生、ありがとう。私、嬉しかったの、今日」
「本当はもっと前に来たかったんだ。公演がこっちにあったから、ついでみたいになってごめん」
「そんなこと、何も気にしていません。先生が母のところへ一緒に行ってくれただけで、私……」
 言葉を詰まらせる私の肩を、彼が優しく抱いてくれた。


 外に灯りが灯る頃、私はワンピースに着替え、彼はジャケットを羽織って部屋を出、夕暮れの小路を下り、ホテルへ戻った。敷地内は地面に置かれた明かりで、道も建物もライトアップされている。
 案内されたレストランは想像していたよりも広く、天井まで届きそうな大きな窓ガラスの向こうは、私たちの部屋から見たものと同じ景色が広がっていた。窓際の一番奥の席に通される。真っ白なテーブルクロスの上で、丸いガラスボウルに浮かぶ蝋燭の炎が揺れていた。テーブルはざっと見て二十卓ほど。半分以上の席が埋まっていた。フロアの真ん中にはグランドピアノ。しばらくしても誰かが弾く様子は見られない。
 ひとくち飲んだシャンパーニュは甘く爽やかな味。蝋燭の光を反射した細かな気泡がグラスの中で輝いている。
「明日はどこを回ろうか? 少しゆっくりして行こう」
「嬉しい……! 大きなラベンダー畑があるらしいの。あと、傍に大きな教会があるから、そこも」
「わかった」
 話が弾んでいる間に料理が運ばれた。地の葉野菜を使った瑞々しいサラダ。濃厚な茄子のクリームスープ。デザートのようなチーズに香りの良いワインと焼きたてのバゲット。お魚のマリネ。どれも美味しくて顔が綻んでしまう。前に座る先生も、久しぶりにリラックスした表情で食事を愉しんでいた。
 ハーブをたっぷり使った子羊のローストを食べ終え、デザートが運ばれると、シェフとオーナーが私たちの前に現れた。
「いかがでしたか?」
「とても美味しかったです。良い時間が過ごせました」
 先生の挨拶に、シェフが頭を下げた。
「公演のお疲れが少しでも和らいでいただければ、私どもも作った甲斐がございます」
「お気遣いありがとうございます。部屋も、無理を言ってすみませんでした」
 隣にいたオーナーが首を横に振る。
「とんでもございません。むしろ、このような場所を選んでいただけて光栄です」
「あの、あそこにあるピアノは……」
 中央に佇むグランドピアノは食事の間、結局誰にも奏でられることはなかった。
「今はシーズンオフですので土曜日だけピアニストが来て弾いています。シーズン中は金土日の三日間呼んでおります」
「そうですか。お礼と言っては何ですが、一曲弾かせてもらえますか?」
 先生の申し出に、彼らは一瞬目を丸くして驚いた。でも、その数秒後には満面の笑みで彼をピアノまで案内した。
 先生はジャケットを脱ぎ、パンツのポケットからハンカチを取り出してピアノの上に置いた。高さを調節した椅子に座り、鍵盤の蓋を上げる。珈琲を口にしていたレストランのお客さんたちが先生に注目した。
 彼の綺麗な指が鍵盤に乗ると、軽やかな曲がレストラン内に響いた。心臓が高鳴る。何度聴いても、彼の音に苦しいほどのときめきを覚えてしまう。ベートーベンの「月光」第二楽章。心地良く響いた曲は、あっという間に終わってしまい、大きな拍手に続いて、彼はモーツァルトのきらきら星変奏曲を弾いた。
「綺麗……」
 思わず溜息を漏らしてしまう。席を立つどころか、カップに口を付ける人すらいなかった。彼の曲に聴き入って目を瞑る人、曲に合わせてゆったりと体を揺する人、微笑みを浮かべて彼を見つめる人。彼らの表情を見た私は、何とも言いようのない気持ちに包まれた。それは優しくて温かい、あの陽だまりに……似ている。


 ピアノを弾き終えた彼と、淹れなおしてもらったコーヒーを飲んでから、部屋に戻った。胸に付けていたカメオのペンダントを外す。バスルームに設置された猫足のバスタブで、彼と一緒にシャワーを浴びた。
 明かりを消したベッドの上に月明かりが差していた。バスローブを着て仰向けに寝転がる先生の横で、私はうつ伏せになり、両肘をついて頬を支え、彼の顔を見詰めている。
「たまにはベートーベンの月光もいいかなと思って」
「今夜のこの場所にぴったりでした。モーツァルトのきらきら星も」
「確かプロヴァンス地方には音楽祭があって、モーツァルトのオペラが上演された話を思い出したんだ。ワインも料理も、その地方にちなんだものだったから。お礼になったかはわからないけど」
「お礼になったと思います。皆さん喜んでいるのが伝わってきました」
「だったらいいけど」
「私、先生のピアノが好きです」
 洗ったばかりの私の髪に、彼が指を入れた。
「さっきみたいに、先生の演奏で皆が幸せになれるの。私が、そうだったように。もっともっとたくさんの人に先生の演奏を聴いて欲しい」
「ありがとう。最近、やっと素直にそう思えるようになったかな。自分のピアノを好きになるのも、そう悪くはないものだってね」
 起き上がった先生が、窓の外に浮かぶ丸い月に目をやった。
「君のおかげだよ」
 その呟きに胸が痛んだ。優しい言葉を受け取るたびに、臆病な自分が顔を出してしまう。これが当たり前だと、欲ばりに思うようになってしまうのが、怖い。
「ドビュッシーの月の光は、君と二人の時に弾きたいから」
「先生……」
「好きなのは、ピアノだけ?」
 私に視線を戻した先生に起こされて、座る彼の胸に抱かれる。
「……先生が、好きです」
「名前」
「あ」
 耳を噛まれて叱られた。何度も言われているのに、なかなかその癖を治せない。
「ここから『先生』って言うのは、なしだよ。苑子」
「……はい」
 バスローブを脱がされ、露わになった肩の線を、先生の温かい舌がなぞっていく。彼はのけぞる私の背中へ、いつも執拗に唇を押しつけた。大きなベッドは二人が倒れ込むと大きく弾んだ。倒れながらも、私の唇と舌を吸い続ける先生の力に誘われて、私も彼に精一杯応えようと動かす。瞳の奥を覗き込みながら先生の名を呼ぶと、受け止めるのに戸惑ってしまうほどの、たくさんの愛の言葉で、彼は私を満たしてくれた。お互いの吐息と体を夢中で探り、激しく求めながら確かめては、時が立つのを忘れて溶け合った。


 汗が引いた頃、先生が私を抱き締めながら言った。
「あの家、改装しようか」
「どうして?」
「もうずいぶん古いし、あちこちガタがきてる。君も不便じゃない?」
 先生の心臓の音が耳をくすぐる。私の大好きな音。大好きな匂い。
「でも私、あの家が好きなんです。先生と初めて逢った時から。だからまだ、あのままでも」
「そうか。じゃあ……」
「?」
「家族が増えることになったら考えよう。いい?」
 問いかけた彼に小さく頷く。薄暗くて良かった。私きっと、耳まで赤くなっている。
 またひとつ、私の胸の奥に贅沢な宝物が積もった。それはまるで、先生が奏でてくれたきらきら星の旋律のように輝いている。話を続けながら指を絡めて、額をつけて、頬に唇を押し付け合って、時が過ぎていくのを楽しんだ。
「先生。何を話していたの?」
「誰と?」
「私の、お母さんと」
「……さあね」
「少しでいいから教えて」
「ありきたりのことだよ。でも僕にとっては大事なことだから」
 黙って先生の瞳を見詰めた。教えて欲しいと無言でねだり続ける私に、彼が根負けしたように笑って言った。
「君を幸せにする、ってそれだけ」
「……」
「どうしたの?」
 言葉の代わりに、涙が溢れた。この気持ちが言葉じゃなくて、そのまま先生に伝わればいいのに。
「もうこんなに幸せなのに……?」
「遠慮されたら張り合いがないな。もっと欲ばりになってよ」
 先生は私の涙を拭って、その痕にそっと口付けてくれた。
「……いいの?」
「いいよ」

 少し開いた白い格子の上げ下げ窓から、遠くの海の静かな波音が届いたような気がした。愛の約束を囁きあう私たちに、丘の上から吹いて来た甘く湿った風と、透明な月光が降り注いだ。








〜fin〜



「金曜日はピアノ」書籍版、その後のお話でした。またその内、番外編など書けたらいいなと思っております。
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お返事はブログにて。

葉嶋ナノハ




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