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金曜日はピアノ 聡視点 21話「別れの曲」後


君がいない金曜日



 十月下旬の夕方。涼しさよりも寒さを感じてシャツの上にカーディガンを羽織る。壁に掛けた時計の針が五時半を指していた。
 いつもと同じ金曜日のように、今日も午前中から買い物へ出掛けて食材を揃え、掃除をして、彼女が好きだと言っていたメニューを思い出しながら、夕飯と明日の朝食の下準備を終えていた。
 ピアノの前に座り、曲を奏でる。弾くことに集中し、何も考えないようにしていた。そう、何も考えない。

 長いソナタとエチュードを弾き終えた。六時五分。玄関にあるインターホンは鳴らない。今度はワルツを弾き始めた。六時半。ピアノの上に置いてある携帯を確認する。連絡は入っていない。
 防音室のドアを開けて廊下へ出た。線香の香りが残る中を歩き、玄関のガラス戸へ目を向ける。人影はない。引き戸をひらき、外へ出ても誰もいない。飛び石の上を歩いて、以前のように門の前に立つ。あの時も連絡はなく、何かあったのだろうかと心配し、腹が立ち、うろうろと歩き回っては門に寄り掛かり、しゃがんで待つ、の繰り返しだった。

 日はすっかり落ち、冷たい風が吹いた。苑子がここへはもう来ないと出て行ったのが、一週間前の金曜日。彼女が、自分でそうしたいと言うのなら仕方がないと思った。追いかけても、その気持ちがどうにかなるわけではない。
 それに、きっと彼女は変わらずここへ来るだろうと、僕は何故か疑いもなく今日を過ごしていた。些細なすれ違いに過ぎない。今までいくら突き放しても彼女は僕のもとへ通って来たのだから、今更そんなことはないと。
 携帯を取り出し、苑子の番号を呼び出す。
『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』
 動揺した僕は慌ててもう一度同じ番号へ掛けた。結局、携帯から流れてくる平坦な声を確認するだけに終わり、肩を落とした僕は家へ入った。ネットでくだらないSNSを探してみても、苑子の名前はどこにも見当たらない。
 僕は彼女のことを何も、知らない。

 金曜日は必ず家にいるようにし、夕方になると落ち着かない気持ちを抑えながらピアノを弾いた。虚しい夜を何度か過ごした一か月後から、今度は思いつく限りの場所へ出掛けた。彼女が僕の家へ通ったと思われる駅からの道なり、路線、そして一度だけ二人で訪れた場所。
「おひとり様ですか?」
「はい」
 都会の川沿いにある和食の店。入口に掛かる暖簾の色は冬のものへと変わり、店先にいた金魚は甕ごと玄関の中に入れてもらっていた。和服を着た店員のあとをついて、畳の部屋へ足を踏み入れる。客は僕の他に三組いた。
「お決まりになった頃、またお伺いいたしますので」
 広い和室の端と端に二台の丸いストーブが置かれ、ちょうど良い温かさで部屋中が満たされていた。
「あの……」
「はい?」
「いえ、何でもないです。すみません」
 こんなところに一人で来るわけがない。溜息を吐いて、温かな麺類や鍋物が追加された冬のメニューを目で追う。

 食事を終えた足でそのまま楽器店へ向かった。
 売り場へ入るとすぐに目に飛び込んでくる壁に並んだ様々なギター。これも教えてあげようと彼女へ言ったことを思い出した。長いこと弾いていないから、家にあるものは弦が駄目になっているはずだ。売り場で弦を選んで購入し、再び店内を歩いて彼女を探した。小さなウクレレ、美しく磨かれた金管楽器、木肌に艶のある弦楽器。僕の話を楽しそうに聞いていた彼女の横顔を思い出す。奥には十数台並んだアップライトとグランドピアノ。離れたところで小さな女の子が電子ピアノを試し弾きしている。習ったばかりなのだろう、ぎこちない「エリーゼのために」が店内中に響いた。
「あの失礼ですが、もしかしてあなたは」
 声をかけられ振り向くと、ここで木枯らしを弾いた時の店員が笑顔で立っていた。
「やはりそうでしたか! あの時は大変失礼をしました」
「あ、ああ。いえ」
「あなたのピアノが忘れられなくて、次にここへいらしたらお声を掛けようと思っていたんですよ。よろしければ、今度うちの楽器店が主催するミニコンサートに出られませんか? カルテットなんですがね。応募方法は……」
 数枚のチラシを強引に押し付けられ、仕方なく受け取る。気が向いたら、と返事をして、そこを離れた。

 その日の夜、一階和室奥の収納場所から、ハードケースに入ったギターを取り出した。
 黙々と弦を張り替えた後、チューニングをしながら、苑子と出先で会話した時のことを思い出していた。ショパンを聴きたいと言った彼女の嬉しそうな表情。バラード、ノクターン、ベートーベンでもアマデウスでも、と言った僕につられて笑った。それらの曲全てを弾いて聴かせることも、ギターを教えることも、ベルガマスク組曲を教えることもなく、約束を何ひとつ果たせないまま、彼女をここから去らせてしまった。
 静かな部屋に弦をはじく音が響いていく。ここへ来ていた白い猫は、もう見かけない。


 懐かしい、数年前に通い慣れた駅。冷たい風を受けながら賑わう繁華街を歩き、人ごみを潜り抜け、一歩入った静かな路地にあるビルの入り口で立ち止まった。自分と同じような会社帰りのサラリーマン達が横を通り過ぎていく。変わらない位置にある看板を確認し、エレベーターに乗った。
 目的の階へ降りて角を曲がると、深い赤の絨毯が僕を迎えてくれた。革靴の音が吸い込まれていく。心地良い音量のジャズが流れてきた。仄かな照明。知っている匂い。こちらに気付いたマスターが、カウンターでグラスを磨きながら言った。
「いらっしゃいませ」
「お久しぶりです」
 会釈をした自分に、目を見張った彼はグラスを置き、慌ててこちらへ近寄ってきた。
「……聡君か?」
「すみません、ご無沙汰してしまって」
「いいんだよ。いや何年振りだろう……! ここ座って。ああ、窓際の方がいいかな」
「いえ、カウンターで」
 マスターの横には一人、知らない男性がカクテルを作っていた。彼もピアノを弾くんだろうか。コートを脱ぎ、マフラーを外して、空いている隣の席へ鞄と共に置いた。
「今はどうしてるんだい? 働いてるの?」
「就職した先で、サラリーマン続けてます」
「そうか。ピアノは?」
「まだ、弾いています」
「それは良かった。うん、そうか。良かった」
 マスターは安心したように何度も頷いた。彼の嬉しそうな顔を見て、ここへ近寄れなかった自分に恥ずかしさを感じたのと同時に、苦かったはずの思い出が、不思議と穏やかな遠い昔のことのように、すんなりと心に甦った自分に驚く。洋二のことも、彼の恋人のことも、当時このうえなく惨めだった自分のことも。

 学生の頃バイトをしていた時と同じ、ここは何も変わっていなかった。グラスを両手で包み、ふとラウンジの隅にあるグランドピアノへ顔を向けた。
 淡い照明に照らされたそれは、誰かが弾いてくれるのを待っているように見えた。
「ピアノ、弾いてもいいですか?」
「ああ、もちろんだよ。ありがたいね。今は平日にピアノを弾ける者は、ここにはいないんだ」
 マスターの言葉に、カウンターにいる若い男性が申し訳なさそうに肩を竦めた。
「何がいいですか? クラシック、ジャズ、最近のポップスはあまりよく知らないんだけど、楽譜があれば弾きます」
「そうだな。じゃあ、聡君が良く弾いていたドビュッシーがいい。曲は任せるよ」
「わかりました」
 カウンターの椅子から立ち上がり、スーツのジャケットを脱ぐ。バーに流れていたジャズの音量が落とされた。
 ピアノの前で椅子の高さを直し、座ってペダル位置を足で確かめる。蓋を開けた鍵盤が再会を喜んでいるかのように輝いた。

 先生はドビュッシーが好きなの?
 嫌いじゃないよ。君の髪の色を見てたら思い出しただけ。

 鍵盤を滑らせると、奏でた曲調と同じ甘い感傷が、ピアノの音と共に僕を取り囲んだ。この場所へ来ても昔の思いに何ら囚われることもなく、あっさり受け入れられた癖に、彼女の言葉を思い出した途端胸が痛んでいる自分に苦笑した。
 偶然だったんだろうけれど。ドビュッシーが好きなのも、ピアノの音が外に漏れていたのも、「月の光」に導かれて彼女が僕のところへ訪れたのも。偶然ではないことにしたかったのは僕の方だけだったんだと、彼女に別れを告げられた朝、思い知らされたはずのに。この気持ちは一体何なのだろう。

 二曲を弾き終えると、そこにいた客の全員から拍手を貰った。軽くお辞儀をしてカウンター席へ戻る。マスターが新しいおしぼりを僕へ差し出しながら言った。
「ありがとう」
「いえ」
「音が、変わったねえ」
「え?」
「あの頃よりもずっと柔らかくなった。聴いている者の胸に沁みる。大人になったんだな」
 当たり前か、と言ってマスターが笑った。その言葉を聞いた僕は、飲みかけのグラスへ口を付けようともせず、琥珀色の液体に浮かぶ氷を見詰めたまま、しばらくの間動けずにいた。
 今初めて、後悔をしている自分に気が付いた。
 苑子を引き留めもせず帰したことに。昔の恋人とのことを誤解させたままでいたことに。彼女といることで僕は変われたというのに、なぜ、はっきりと自分の気持ちを伝えきれなかったのだろう。
 また来ることをマスターへ約束し、急いで家へ帰った。

 グランドピアノの後ろにある棚から楽譜を取り出す。ベルガマスク組曲。苑子が好きだと言った月の光。
 いくら後悔しても彼女に逢えるわけではない。もう一度、彼女に僕の音を見付けてもらうしかない。ピアノを弾いて待ち続けるしかない。僕には、そうすることしかできないのだから。

 楽譜をピアノに置いて、そう心に決めた僕は、躊躇っていたコンクールの応募要項や、楽器店で貰ったオーディションの広告へと目を通した。










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