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僕はロマンチスト





 僕は恋愛そのものにあまり興味がなくて、自分の世界が一番大事で、いつも理性が働いて、現実的過ぎると彼女に思われてる。

「ナオキ」
「ん?」
「こっち向いて。寒い」
「んー、ちょっと待ってよ」
 狭いベッドの上でパジャマに着替えたハルカはくっついて、僕の動きを制限しようとする。
「ねえ、抱っこ」
「はいはい」
 うつ伏せのまま本を左手でめくり、右手でハルカの頭を撫でる。乾かしたばかりの彼女の髪はしっとりしていた。もこもことしたルームソックスをはいた足先を僕の脚へ絡ませた彼女は、必要以上に体を押し付けてくる。
「違うってば。……してって言ってるんだけど」
「何を?」
 小さく並んだ活字を目で追いながら返事をする。髪を触った方の僕の腕を、彼女は何度も引っ張った。
「だってもう、二か月もしてないじゃん」
「そうだったっけ?」
「ナオキは平気なの?」
 喉が渇いた気がするけど、キッチンまで行く気にはならない。
「僕は別に……。いいじゃない、こうして一緒にいられれば。それに、どうしてもこれ今夜中に読んじゃいたいんだよ。来週もまた忙しいし、そろそろ就活も準備しなきゃなんないし」
「久しぶりなのに、あたしよりも本?」
「うん、今は」
 ひどい、と言って僕の腕をハルカが引っぱたいた。女の子の力とはいえ、痛いものは痛い。それよりも本へ集中できないことに少しだけ腹が立ったけど、とりあえず今は黙ってやり過ごす。
「もうあたしなんて全然魅力ないんだ。そうなんだ」
「……」
「きっと他に好きな女が出来たんだ」
 枕に突っ伏した彼女が、肩を揺らして泣き真似をする。
「嘘泣き」
「違うよ! ねえもしかして……病気なの?」
「どうしてそうなるんだよ。鼻水出てる」
「鼻水じゃない、涙! ナオキのバカ!」
「ほらティッシュ」
 さっき言ったことは本当で、付き合って二年も経てばセックスそのものだって、飽きたってわけじゃないけど落ち着くもんなんじゃないの? 確かに元々淡白な方かもしれない。でもそういうのがなくたって、一緒にいたいって思えるんだから、それって素晴らしいことじゃないか。一人の時間が好きな僕にそう思わせる君は貴重な存在なんだよ。
 なんてことは、今の彼女へ言っても全く通用しないのはわかりきってるから、ティッシュで涙と鼻を拭いてやり、長いキスで何とか宥めて誤魔化した。彼女が好きだと言う黒縁眼鏡を掛け直し、読みかけのページを辿っていく。しばらくすると、隣で寝転ぶ彼女が欠伸をしながら言った。
「ねえ、メール来てるよ」
「いいよ。多分ダイスケからだから、あとで見る」
「一緒にいるのに自分のことばっかり」
「ハルカも好きなことすればいいじゃない。僕は全然かまわないんだからどうぞ」
「もういい。もう別れる。ナオキって何言っても怒んないし優しく見えるけど、冷たいよ。もっとあたしのこと構ってくれる男のとこに行く。ていうかもう寝る」
「どうぞ。おやすみ」
 口癖のように呟くいつもの愚痴を本気にもせず、再び本の世界へ没頭した。外は車の通りも減り、虫の声も聞こえなくなった十二月の夜は静かだ。ある程度まで読み進め、ようやく満足感を得た頃、携帯を手にしてメールを開いた。そこにはなぜかハルカの名前。

 ――クリスマスは一緒にいよ。それで許してあげる。

 僕の隣でマンガと携帯を手にしたまま寝息を立てている彼女の唇へキスをした。眉を寄せてそのまま眠りへ戻ろうとする彼女の首元へ顔を寄せ、パジャマの裾から手をしのばせる。何も身に着けていない温かい柔らかさを包んで、また彼女の唇へ戻ってそっと舌を押し込んだ。メイクを落とした幼い顔で、目をこすった彼女が僕を睨み付けた。
「……しないって、言ったクセに」
「じゃあしない」
「え、やだ。して」
 僕が今こういう気持ちになったのはどうしてなのか、彼女には一生理解してもらえないんだろうけど。自分でも上手く言い表せないし、自分勝手かもしれない。でも、可愛いって思ったのは嘘じゃない。
「メール見たよ。隣にいるんだから直接言えばいいのに」
 耳朶を口へ含むと必ず彼女は体をよじる。小さなピアスごと舌で包むと、今度は甘い声を聞くことができる。
「だって……全然私の話、聞いてくれないじゃん」
 鎖骨よりも下へ進んでいく度に夢中になっていく僕を、彼女は相変わらず気づいていない。
「約束して? 絶対だよ?」
「絶対とは言い切れないけど、いいよ」
「その言い方、嫌い。ナオキも嫌い」
 初めはひんやりと感じた彼女の肌も、今は僕と同じ体温になって違和感なく吸い付いてきた。彼女によって湿った僕の指をチラつかせ、少しの優越感に浸る。
「こんなになってんのに?」
「大っ嫌い。意地悪、意地悪、意地悪……!」
 顔を赤くして怒ったかと思えば、ゆっくりと進んでいく僕に反応して急に蕩けそうな表情になる。泣きそうに顔を歪めたり、嬉しそうにしがみついてきたり、そんなハルカを見るのは僕だって好きだ。
 ただ、しょっちゅう思いを伝え合うのは、どうかと思うんだ。そういうのは特別な時に少しだけでいい。じゃないと全部嘘くさく聞こえてしまう。
 僕は面倒くさがりで怖がりだから。必要以上に馴れあいたくないし、僕の領域にも入り過ぎないで欲しいんだ。


 そんなふうに今までずっと思ってきたのに、僕は今、これまで生きてきた中で、多分一番と言っていいほど面倒なことに首を突っ込んでいる。

 絶対だと約束していた日は、朝から僕のバイトが入ってしまったことで彼女の怒りを買い、こんな結果になってしまった。思えばその時の僕の対応がいけなかったのかもしれないし、前々からハルカが僕に言っていた、他の男を見付けるという行為を実行しているだけのことかもしれないけれど、僕は柄にも無くとても焦った。
 友人からの頼りない情報を掴んだ僕は、クリスマスイブの今日、ハルカと、彼女に言い寄っているだろうと思われるガタイのいい男が待ち合わせをした場所から、ずっと後を付けていた。バイトなんて夕方前にとっくに終わってる。ハルカには伝えなかったけど、初めからその予定だったんだ。
 広いカフェに入った二人をさり気に追いかけ、カウンター席に座ったのを確認してから、僕は背中を丸めて店に入り、窓際角っこの席へ陣取った。そこは一面ガラス張りで外の通りに面していた。木々に飾られたイルミネーションが輝き、カップルや家族連れがこれ以上の幸せはないと言わんばかりの表情で、ガラスの向こう側を楽しそうに行き交っていた。

 遠くのカウンターに並ぶ二人を、チラチラと振り向いて見つめる。
 彼女の横に座っている男は何がそんなに楽しいんだか、大げさに笑ったり頭を抱えたり、常にせわしなく動いていた。ちぐはぐな組み合わせの服とセンスのカケラもない靴と変な髪形をした男は、ハルカの話を熱心に聞き、頷き、彼女から片時も目を離そうとはしなかった。僕とは、正反対だ。
 店内にはクリスマスっぽいR&Bが流れている。大きめの耳障りな音量が僕をイラつかせた。白いカップに入ったコーヒーがとびきり不味く感じる。目の前のガラスに映っている自分の表情は最悪だった。誰だ、これ。

 三口目を啜ってもう一度振り向くと、二人は会計を済ませていた。彼らが店を出たと同時に僕も立ち上がる。一歩足を進めてマフラーを置き忘れたことに気づき、戻ろうと振り向くと、ハルカと男がガラスの向こう側、通りを歩いてきた。飛び出しそうな心臓を抑えて、僕は咄嗟に顔を逸らしたけれど、タイミングの悪いことに彼女と目が合ってしまった。慌てて会計へ急ぎ、二人とは逆方向に店を出た。
 そうだ、僕は追いかけない。何やってんだよ、なんて引き留めない。彼女に手を出すな、なんて言わない。カッコつけてるわけじゃないし、男らしくないと言われればそれまでだけど、でも無理だ。……彼女が、笑ってたんだから。

 外へ出てみると予想外に寒い。息は白く、ぬるいコーヒーなんかじゃ全く温まらなかった僕の体は、指先から足先から、どんどん冷えていった。後ろからヒールの足音が近づいてくる。
「ナオキ! 待って!」
 返事をするのも億劫で、振り向きもせずにそのまま歩き続けた。
「ナオキ、なんでここにいるの? バイトは?」
 まだ無視してやる。すれ違う人と肩がぶつかった。
「ねえ、怒ってる?」
「別に怒ってないよ」
「じゃあどうして声かけてくれなかったの?」
「楽しそうだったから、ハルカが」
「あんなの愛想笑いだよ。ナオキ、いつからいたの?」
 泣きそうな声が人ごみへ紛れていく。
「ハルカこそ何やってんだよ。あの男は?」
「カフェ出たら帰るって最初に言ったの。待ち合わせしてる時から、ナオキの顔、見たくなっちゃって」
 彼女の言葉が聞こえやすいように路地へ曲がった。突然静けさが現れた場所には、クリスマスの飾りを付けた小さな店が暖かい光を放っている。
「ガラス越しにナオキのこと見つけて、お店から出てくる寂しそうな背中見たら、我慢できなくて走ってきたの」
「……」
「どうせ寂しくなんてなかったって言うんでしょ? いいよ、もう」
「寂しかったよ」
「え?」
 スピードを上げて歩く僕の横を、彼女は何か聞きたげに必死でついてきた。
「寂しいからこんなとこまで、くっそ面倒くさいのに来たんだ」
「面倒くさい?」
「そうだよ。くっそ面倒で、くっそ寒くて、くっそつまんなくて、くっそ惨めで、こんなの僕の人生で初めてだよ!」
 足を止めて振り向いた僕の顔を、ハルカはぽかんと口を開けて見つめた。いつもより丁寧に髪を巻いてたり、見たことのない新しい服だったり、気合を入れたメイクだったりしたら、今この場で彼女を置いて帰ったのに。
「初めて、怒った……」
「僕だって人間なんだから怒るに決まってんだろ! 勝手にあれこれ決めつけるなよ、バカ!」
「バ、バカってなによ!」
「バカだからバカだって言ったんだよ! どうせ僕以外の男なんか駄目なクセに勝手なことして」
「……ごめんなさい。もうしない」
 急に大人しくなった彼女は、俯いて僕につむじを見せた。
「だって、何言っても私の話、聞いてくれないんだもん。今日だって楽しみにしてたのに、もうあたしのこと好きじゃないのかと思っ」
 遠くから古いクリスマスソングが流れてきた。僕の腕の中で、ハルカは驚きのあまり声も出せずにこちらを見つめている。無理もない。こんな場所で無理やりキスしたんだから、この僕が。
「あげる」
 ポケットの中からリボンのかかった小さな箱を取り出してハルカへ渡す。彼女が欲しいと言っていた店のアクセサリーだ。
「これ、バイトのあとであげるつもりだったんだ。それを人の話も聞かないで」
「もう一回キスして」
 僕に抱きついてきたハルカが言った。今度はこっちが驚くほどの強い力で。
「人が来たからやだよ」
「今したくせに。……じゃあ好きって言って」
「そういうのは特別な日だけでいいんだよ」
「今日は違うの?」
 上目遣いで首をかしげたハルカは、そんなことで僕が釣られるとでも思ってるんだろうか。媚びを売ったり無邪気に笑ったり怒ったり泣いたり、忙しい彼女を見てるのは悪い気分じゃないけど。
「あとで言う」
「あとっていつ?」
「僕の部屋で」
 彼女の手を取り、また歩き出す。
「ほんとは美味しい店も予約して、夜景見てハルカを驚かせて、それ渡して言うつもりだったんだ。ベタすぎるけど」
 信じられないという表情をしてハルカは僕の顔を覗きこんだ。濡れた唇が外灯に反射して光っている。
「でも今年は全部中止。また来年」
「来年も、一緒にいてくれるの?」
「僕はそのつもりだけど」
 ハルカは手を離して不機嫌な顔をした僕の腕にしがみついた。嬉しそうな彼女と目を合わせ、ひとつ大きなため息を吐く。そんな僕を見てもお構いなしにハルカが満面の笑みで言った。
「ナオキに会えるんだったら、新しい服着てくれば良かった」
「……」
「ナオキって本当は……すごくロマンチックなんだね」
 意外にも雰囲気のいい店が並んでいる路地を、今度はハルカの歩調に合わせてゆっくり歩く。彼女と僕自身に向かって小さく呟いた。
「遅いんだよ、今頃気づくとか」

 期待していた雪は、まだ降りそうもない。









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