再び裏口から屋敷の中へと案内された。
 玄関では、先ほどの男二人が待機するようにと、マサに指示を受けていた。もう簡単には逃げられない。

 薄暗い廊下を歩く。他の人間には出くわさない。ご不浄へ行った後、マサに風呂場を案内された。
 脱衣所の古い板張りの床が大きな音を立てて軋み、驚いた糸子は足を引っ込めた。
「旦那様は綺麗好きでいらっしゃいます。ここは使用人の使う風呂。人魚さまにも、二日に一度はお入りいただきたい」
「……」
「手拭いはこちらのカゴに置いておきます。着替えのお着物もご一緒に」
「今着ているものを変えたくはありません」
 このような扱いを受けている場所のものなど、一切身に着けたくはなかった。
「従っていただく」
 マサの冷たい声が脱衣所に響いた。
「脱いだ着物を勝手に処分するようなことはやめて」
「そのようなことは致しません。だが、身に着けていただくものは、こちらでご用意した着物でお願いします。今時分、使用人は台所で食事の用意や、その他の仕事で風呂に入る者はおりません。風呂焚きの者が窓の外におりますので湯加減をお伝えください。私はここでお待ちしておりますゆえ、どうぞごゆっくり」
 脱衣所に残るマサの視線を感じ、次の行動を躊躇う。着物を脱いだ途端、何をされるかわからない。かといって、逆らうことなど許されない雰囲気である。
「如何されました。着替えをお手伝いいたしましょうか」
「いらないわ。見られたくないの。あちらを向いていて」
 見回しても小窓がひとつあるだけで、逃げ道はなかった。
 仕方なく糸子は帯を解き、着物を脱いだ。襦袢や裾避けも取り、手拭いで前を隠して風呂場の引き戸を開ける。
 蓋の開いた木桶風呂から、もうもうと湯気が立ち上っていた。引き戸を閉め、糸子は風呂場の冷たい床にしゃがんだ。手桶で湯を掬い、足元へ、ばしゃりと掛ける。少々熱い。
 兄と母と暮らした富張の家の風呂と同じ仕組みであった。糸子は横に並ぶ、蓋の乗ったもうひとつの水が張られた木桶から水を掬って熱い湯船へ入れ、湯温を調整した。
 そろりと湯に足を入れ、底板に両方の足裏を乗せて、ゆっくりとしゃがんだ。
 湯はちょうどよい温度で体と心の緊張を、一瞬だけ和らげてくれた。柵のついた窓の外に夕焼け空が見える。
「いかがでしょう? ぬるくはございませんか」
 見ていた窓のほうから男の声が飛び込み、驚いた。
「え、ええ。大丈夫です」
「熱い場合も、ぬるい場合も、お声をお掛けください」
「わかりました」
 男の声を聞きながら、ふと先ほどの話を思い出した糸子は、湯の中にいるというのに背筋が凍りそうになった。
 村の男衆全員と交わるなど……狂気の沙汰である。一体何人の男が、この村にいるというのか。
 マサは三月三晩後に儀式を執り行うと言った。今は八月末に届くかという頃。この先、三月の間に逃げ出すことができれば――
 そう思った瞬間、胸の奥が軋んだ。
 逃げ出せば兄に危害が及ぶ。嘘なのかもしれないが、可能性は否めない。薫が堂島家にいるということは、あの勝太郎と一緒だということ。留学だと言っていた勝太郎は、堂島家に帰って来ていた。
 どうにかならないものだろうかと、ため息を吐いた瞬間、風呂場の引き戸がガラリと乱暴に開いた。驚いてそちらを向くと、羽織を着た着物姿の男が立っている。
「誰!?」
 糸子は咄嗟に手拭いで前を隠し、肩まで湯に沈んだ。
「ほう、威勢がいいというマサの話は本当のようだな」
 風呂場へ一歩入ってくる。
「な、何を……」
 糸子の声が恐怖で上ずった。脱衣所で待っているはずのマサは……? 男は鼻の下に蓄えた髭を指で擦り、一歩、また一歩と糸子へ近づいて来る。腹の出た小太り気味の中年男性だ。
 どうしてよいかわからず、糸子は固まったまま、男を睨み付けた。
「色の白い女子(おなご)だのう。髪は黒く艶やか、顔はかなりの別嬪じゃあないか」
 手を伸ばした男は、湯船から出ている糸子の首筋を指で撫でた。
「やめて……!」
「三月などと言わず、今夜すぐにでも儂の床へ呼びつけたいものだが……人魚さまの言い伝えには逆らえないものでな。三月後を楽しみに待っているぞ」
「触らないで、汚らわしい!」
 この男も贄のことを知っているのだろうか。
「旦那様に何という口を利く! お謝りなさい!」
 いないと思っていたマサの声が風呂場中に響き渡った。
「よいわ、よいわ。手なずけるのに苦労しそうなほど、今から楽しみが増えるわい。逆らう女が堕ちる様ほど面白いものはないからな」
 高笑いした男は糸子に背を向け、風呂場を出て行った。
「……あれが、旦那様……?」
「ええ。お屋敷の旦那様、勇夫(いさお)様じゃ。この村を取りまとめていらっしゃる」
「あの人も、儀式に参加するというの」
「あなたと交わる最初のお方が、旦那様にございます」
「!」
「お背中をお流ししましょうか」
「……」
 首を横に振った糸子は、湯船の中でマサに背を向け俯いた。瞳から零れた糸子の涙が湯船に落ち、小さな波紋が広がる。ぽたん、ぽたんと……虚しい音が辺りを彷徨った。

 湯から上がり蔵へ戻る。マサが蝋燭に火を灯しながら糸子に問いかけた。
「人魚さまは初物でいらっしゃいますな」
「はつ、とは?」
「どなたとも交わられていないか、ということです」
「あ、当たり前でしょう……! 夫もいない身でそのようなこと」
 怒りにも似た羞恥で糸子の顔は、かっと熱くなった。
「よろしい。ではこちらを読んで、まずは知識をお入れくださいませ」
 振り向いたマサは、風呂敷に包まれていたものを取り出して、糸子に差し出した。
 着物姿の男女が重なり合っている絵の描かれた一冊の本。受け取った糸子は頁を一枚めくって、反射的に本を投げた。
「や……っ!」
 中にも絵が描かれていた。着物が乱れた裸の男女が抱き合っている。繋がっている場所までもが、蝋燭の灯りで糸子の目に飛び込んだのだ。
「おやおや、そのように怯えるなど……先ほどおっしゃった初物というのは本当であったか。旦那様も大層お喜びになられるであろうて」
 畳の上に転がった本を拾い上げたマサは、ある頁をめくって糸子に見せた。
「このようにしてご自身をお慰めして、ほぐされておくように。儀式の折、旦那様のお手を煩わせてはいけませぬぞ」
 一人の女が横たわり、着物の裾に自分の手を入れていた。指で股座を触っている。
「ひと月もすれば、よくよく濡れてほぐれましょう。ひと月後に、それ、このような道具も持ってまいりますので」
「ひ、っ」
 指だけではなく、おかしな形の太い棒のようなものが突き入れられている。怖くて顔を逸らす直前に、女の表情が目に焼き付いた。悲痛の表情など全くなく、むしろ喜んでいるのである。
「それでは、お休みなさいませ。これは旦那様からお預かりした本。大切に扱うように」
 マサの草履の音が遠ざかる。ぎぎい、と蔵の戸が開き、そして閉まった。
「……う、うう」
 糸子はがたがたと震えながら薄っぺらな布を頭まで引っ被り、背中を丸めて縮こまった。
「お兄様、お兄様……助けて……お兄様」
 囁くような声で誰にも聞こえないように兄を呼び、涙を流す。
 悪夢のようだと思った。伝説などよりも、今、こうして生きている人間たちのほうが余程恐ろしい。
 薫の腕に抱かれて眠りたい。不安なことなどひとつもない、あの温かい腕の中で。彼の香りをいっぱいに吸い込んで、くるまれて眠りたい。兄に触れられたい。
 ――お兄様であれば、よいのに。あのような気持ちの悪い男に触れられるのなら、その前にお兄様に全てを捧げたかった。奪われたかった。お兄様になら何をされても喜びに変わるだけなのに……

+

 この場所へ来てから、ひと月が経とうとしていた。
 蔵と母屋の間を、ご不浄や風呂を往復するだけで、屋敷の外はおろか、母屋の中がどうなっているのかも、未だ糸子にはわからなかった。
 マサの言葉に逆らわず、出された食事をとり、滋養だという薬を飲み、淡々と過ごしたが、夜に自分を慰める行いだけは拒否している。
「おはようございます、人魚さま」
 マサが朝飯を盆に載せ、蔵へ入ってくる。
 開いた戸の向う側から入る風は、真夏のそれよりも、いくらか涼しげなものに変わっていた。
「本日は人魚さまに見ていただきたいものがございます。お外へお連れいたしますが、お体の調子が悪いことなどありませぬか」
「外へ行けるの?」
「ええ。シゲとナミオもご一緒させていただきます」
 母屋へ行くときに常に糸子の傍に付く、二人の男だ。

 早々に朝食を終わらせた糸子は、マサの案内で屋敷の外へ出た。
 ひとつひとつの道順を忘れてしまわないように頭の中へと叩き込む。万一逃げられることがあれば……そのときの為に覚えておくのだ。たとえ無駄なことだろうとも。
 屋敷を出てすぐに浜へ出た。空をウミネコが飛び交い、漁を終えた漁師たちが分けている魚を狙っている。青々と広がる穏やかな海は、白い波を浜へ送り続けている。
 さくさくと砂浜を歩くマサと糸子たちを、漁師の男どもが振り返った。
「あれが人魚さまか」
「ずいぶんと、はぁ、別嬪だなぁ」
「運がいいときに生まれたのう、俺らは」
 ひひ、といやらしく笑った男たちの話し声が、糸子の耳まで届く。
 糸子は唇を噛み締め、屈辱の思いで、足早にそこを去った。

 ごつごつとした岩と、そこを上がる道が表れた。坂を上っていくと、道は林に続いていた。進むうちに木々は増え、森の中を歩くことになる。左側は海に近い崖、右側は山に続く深い森である。
 やがて人の歩く道は無くなり、ごろごろとした岩や、大きな木の根が這う獣道を案内された。久しぶりに外を歩く糸子には少々厳しいものがある。先を歩くマサは、老婆とは思えない体力だ。
 突然森が途切れると、岩肌の崖が現れ、崖伝いの道を進んだ先に石碑が佇んでいた。視界が開け、ここが高い場所にあることを教えてくれる。
「こちらにございます」
「……人魚、塚?」
 石碑に刻まれた文字を呟くと、記憶の片隅で同じ名称が呼び覚まされた。
 年明けの夜遅く。薫と同じ布団でうつ伏せになって見ていた、かび臭い本。人魚さまの絵が描かれた本に挟まれた、一枚の古い紙。薫の手が紙をひらりとさせる。青いインクで確かに「人魚塚」と書かれていた。
 思わぬ偶然に胸騒ぎがした。
 石碑の周りには彼岸花が一面、びっしりと咲いている。その鮮やかな真紅の様子は、堂島家の洋館の廊下に敷かれた絨毯を思い起こさせた。
「ここに人魚さまが祀られております」
 しゃがんだマサは漁師から受け取っていた魚を石碑の前に置いた。
 横に佇む糸子の後ろで、シゲとナオミがぴったりとついている。
「昔、人魚さまがこの海に現れ、村が繁栄をもたらした頃、ある一族が不老長寿に成り得る為に人魚さまを殺してその肉を食べようとした。しかし、その直後から村の女がことごとく死んでいく奇怪な現象が続いた。海に落ちるような不慮の事故が絶えず、原因不明の病や、神隠しにあった者までいた。皆、人魚さまの祟りであろうと噂した」
 どこから飛んできたのか、ウミネコが傍へ降り、石碑の魚を狙っている。舌打ちをしたマサは、手を振ってウミネコを追い払いつつ、話しを続けた。
「そこで村人は人魚さまのお怒りを鎮める為、贄を奉げることにした。今後この地に人魚さまが現れても、一切抵抗する気のないことをお伝えするために、残っていた人魚さまの肉を村の若い女に食べさせ、村の男衆全員と交わらせた」
「……」
「女を犠牲にしても人魚さまのお力をいただきたい、という意思を儀式とした。すると奇怪な現象は収まり、村は繁栄した。人魚さまを鎮めるだけではなく、人魚さまの肉を食べた女と交われば、その力を得て村の繁栄になるとされた」
「女はどうしたの。不老長寿になったの」
 低い声で糸子は尋ねた。
 若い女が何をしたというのか。人魚さまが怒りの矛先を向けるというのならば、人魚さまを殺した一族であるだろうに。
「古い言い伝えですので、その後のことはわかりませぬ。人魚さまは確かにおられたのでしょう。肉は見つかっておりませんが鱗だけは残っている」
「女は本当に人魚さまの肉を食べたの。その肉は本当に人魚さまの肉だったの」
「帰りましょう」
 答えずに立ち上がったマサへ、糸子は尚も詰め寄った。
「不老長寿になったの!? それとも死んだの!? 儀式の後に解放されたの!? 答えなさい!!」
「あなたは人魚さまだ。そのことだけは覆りませぬ」
 薄気味悪い笑みを浮かべたマサは、興奮する糸子を促し、崖の道を戻った。
 途中、二股に分かれた道を曲がると洞穴があった。
「こちらが儀式を執り行う場所。あと二月後にこちらへおいでいただきます」
 心臓が嫌な音を立て、頭ががんがんと鳴った。暑くもないのに体中から汗が噴き出し、糸子の襦袢を濡らしていく。洞穴の奥に広がる暗闇が、糸子を早く呑み込みたいと、舌舐めずりしているようであった。

 同日の夕刻。マサが食事とともに、木箱を持って蔵に入った。
「お約束通りお持ちいたしました。張形にございます」
「はり……?」
「道具でございます。お預けしたご本で説明したいのだが」
「……見たくないわ、あんなもの」
 蝋燭の灯りを点けて部屋を見回したマサが、長持ちの上に置かれた本を手にする。畳に座る糸子の傍へ寄り、ひらいた本を無理やりに見せた。
「このように男の硬く張り詰めたものが、いや……もう少々大きいかの。これが人魚さまの股座へお入りになるのです。この絵にあるように深々と」
 汚らしく、穢らわしく、生々しい絵を見せられて、糸子は吐き気を催した。
 このようなことを、旦那様と呼ばれたあの男と……いや、それだけでは終わらない。今朝、浜で見た漁師の男。あの者たち、一人一人の慰み者になるのだ。
「儀式の折に痛みの強いのは嫌であろう? この道具を入り口だけに入れて練習なされ。奥まで入れてはいけませんぞ。それは旦那様のお役目であられるゆえ」
 以前見た、女が自分で股座におかしな形の棒を入れている絵が、糸子の脳裏を掠めた。木箱の中にその棒……張形という道具が入っているのだろう。
 くくく、と笑ったマサは、呆然とする糸子の横に、本と木箱を置いていった。

 その晩、薄暗い蔵の中で糸子は兄を思った。
 幼い頃の会話、一緒に読んだ本、縁日へ連れて行ってもらったこと、眠れない夜は物語を面白おかしく語ってくれた。
 薫の匂い、肌の温かさ、大きな手で髪を撫でてくれた。彼の頬に口づけた自分へ、ほんの一瞬掠めるように唇へ重ねられた、春風のような接吻。
 畳の上に横たわっていた糸子は、溢れる涙を呑んで、右手を着物の裾に忍ばせた。
 お兄様ならばよい。お兄様に触れられるのならばよい。お兄様だと思えば――よい。
 裾避けの奥にひっそりと隠された、自分ですら触れたことのない場所に指を差し入れる。
「……お兄、様」
 呼ばれた薫が優しい笑みでこちらを見る。糸子、と甘く囁く。抱き締めてくれる。腕の中は温かい。長く美しい指が、糸子の太腿へ触れ、その奥へと伸びる。
「あ」
 自分の指を兄のそれにたとえ、糸子は瞼を閉じた。
「……お兄様……お兄様」

 恐ろしさから逃げるために、しんしんとした夜の闇を道連れに、糸子は薫を夢想しながら自身のぬるい湿り気の中で、指を動かし続けた。