梅雨が明け、夏の日差しは日増しに強くなり、蝉の声が騒がしくなってきた。むせ返るような濃い緑の香りに包まれた洋館の中は、相変わらず静かで、糸子は孤独だった。

 食堂のテーブルに着席し、静かに匙でスウプをすくって口へ運ぶ。テーブルの端に男爵が、傍には正妻の八重子、離れた場所に糸子が座っている。糸子は正面の空席を見つめ、誰にも聞こえないよう小さくため息を吐いた。そこは母の席である。
 主治医の戸田によると、母は暑さ負けをしている故、しばらく部屋で安静にして、ゆっくり休ませれば治るとのことだった。戸田の言葉に安堵した糸子だが、一週間、十日と日にちが経っても、母は部屋から出て来ない。心配した糸子が見舞いを申し出ても、女中に断わられてしまう。何より、母が誰にも会いたがらないのだと言うのだ。
 元々、母は人前に積極的に出てくるほうではない。前の家でも一人の時間を好む人だった。自分が無理強いをして、母の具合が余計に悪くなっても困る。糸子は母を女中に任せ、母の具合を薫への手紙に綴った。たいしたことはないようだから、それほど心配しなくて良い、とも付け加えた。だが、珍しいことに薫からの返事が未だ来ない。勉学に忙しいのだろう、と自分に言い聞かせてはみたものの、不安は募るばかりだった。
 朝だというのに、この食堂はあまり日が入らず薄暗い。心配事と相まって、糸子の気持ちは余計に沈んでいた。

 日が高くなるにつれ室内の温度が上がり、額に現れた汗が幾度もこめかみを通り過ぎた。昼まで自室で勉強をしていた糸子は、喉の渇きに耐えきれず、階下へ降りた。飲み物を頼む為に、ドアがいくつも並ぶ廊下で女中を探す。が、家の中はしんとしていて、蝉の鳴き声が響き渡るばかりである。
「お帰りなさいませ」
 ホール横を通り過ようとした糸子は、女中の声に振り向き、その光景に目を瞠った。
「ただいま」
 玄関には薫がいた。女中と挨拶を交わしながら学帽を外している。こちらに気づいた薫の視線を受け止め、駆け寄った。
「お兄様……! 驚いたわ、急にお帰りになるなんて」
 喜ぶ糸子に帽子を渡した薫を見て、自分は用無しとばかりに女中はそこを離れた。玄関ホールにいるのは薫と糸子の二人きりとなった。
「どうしてだい? 七月末に帰ると手紙に書いたろう。夏の休暇だよ」
「手紙に?」
「お母様のお加減はどうだ。お前のほうこそ、お母様のことを僕に報告後、それきりだから気になってたんだよ。まぁ、大事があれば電報なり何なり届くだろうから、それほど心配はしていなかったが」
 歩き出した薫のあとを静々とついてゆく。彼女の沈黙に気付いた薫が、玄関ホールの中央で振り向いた。
「どうした、糸子?」
「……お兄様からのお返事はこちらへ届いていないの。それきりだなんて、どうして……? 私、何度もお手紙を書いたわ」
「それはおかしいな。糸子の手紙は誰に渡したんだ」
「大野さん、に」
 嫌な予感が胸を掠めたが、糸子は口を噤んでそれを否定した。
「僕が出した手紙も彼が管理しているのかもしれないね。後で聞いてみよう」
 猫の餌やりを見たくて、大野と接することがある。堂島家で過ごす糸子にとって、それは数少ない楽しみでもあった。その大野に兄への手紙を出すよう頼んでいた。今までもそうして来たのだから、当たり前に。
「大野さんを疑いたくないわ」
「ああ。僕だってそうさ」
 頷いた薫と視線を合わせる。ステンドグラスから差し込んだ美しい光が、兄の肩先に落ちていた。
 手紙のことは気になるが、何よりも兄に会えたことが嬉しい。彼の黒い眼に自分が写っている。高鳴る鼓動を抑えて、気持ちを込めた精一杯の言葉を差し出した。
「お兄様、お帰りなさい」
「ただいま」
 兄の微笑みを受け取ったその時、二階を歩き回る大きな足音がここまで届いた。ざわついた声も聞こえてくる。
「騒がしいな。どうしたんだろう」
 糸子と薫は廊下にある階段のほうを見やった。すると、先ほどの女中が素早く階段を降り、焦った表情でこちらへ近づいて来た。
「薫様、糸子様。純子様のお部屋へ、お急ぎくださいませ」
「お母様の?」
「急ごう、糸子」
 女中の後に続いて二階へ上がり、母の部屋に入る。
 そこには主治医の戸田と、既に息を引き取った後のベッドに横たわる母の姿があった。
 戸田が何かを説明していたようだったが、糸子の耳には入って来ない。母の顔は白く、微かに微笑んでいるように見えた。
「どうして……お母様……何故」
「突然過ぎる」
 呆然と立ち竦む糸子の横で、薫が呟いた。
 いい予感がしない。かつて薫が吐き出した言葉は、正しかったのかもしれない。


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 母の葬儀を終え、初七日が過ぎた。八月は中旬に入ろうとしている。
 朝から蒸し暑く、べったりとした汗が体に纏わりつく。糸子は、薫の部屋の舶来の椅子に座っていた。堂島家はこういった異国の調度品をたくさん所有しており、糸子と薫にあてがわれた部屋にも当然のごとく、それらが置かれていた。
 開け放った窓の外を見つめていた薫が、カーテンの端を掴んで、ぽつりと呟いた。
「二人だけになってしまったな」
「……ええ」
 薫の父、糸子の父、そして母を思う。家族と呼べる者はもう、兄と自分しかいない。関わることが少なかったとはいえ、ともに暮らしてきた母との突然の別れは、糸子と薫に大きな喪失感をもたらしていた。
「ここを出ようか、糸子」
「え?」
「お母様が亡くなった今、堂島男爵が血の繋がりの無い僕らを養う義理もないだろう」
 母が気に入られて妾となり、糸子と薫は連れ子としてこの家に入ったに過ぎない。堂島家に来た翌朝、庭で勝太郎に言われたことが思い出された。
「宗一郎の父上が遺してくれたあの家、まだ売りに出ていないようなんだ」
「そうなの?」
「もしやと思い調べてみたら、母上の名義のままだったよ。二人であそこへ戻って暮らそう」
「お兄様……」
「お母様が宗一郎の父上から継いだ遺産も、まだ少し残っている。僕の仕事が見つかるまで、しばらくは生活できる筈だ。ここを出るなら、一刻も早いほうがいい」
 窓の外から糸子へ視線を移した薫が力強く言った。兄の提案と頼もしさに感動した糸子は、彼に向けて宣言した。
「私も働きます。お兄様の足手まといにならぬように」
「いや、糸子を働かせるのは忍びない。僕が何とかするよ」
「いいえ。お兄様と一緒なら、私……何でもいたします」
 心からの言葉だった。
「……ありがとう、糸子。苦労かけるね」
「いいえ、いいえ。苦労じゃないわ。嬉しいわ、私」
 薫とともに過ごせるのなら、どんな苦労もいとわない。母が亡くなった今、互いを支えに生きていくしか術はないのだ。
 糸子に近づいた薫は、彼女をそっと腕の中に閉じ込めた。大きな手に抱かれた糸子は、何の躊躇いもなく彼の胸に体を預ける。薫は糸子の着物の肩に顔を埋め、大きく息を吸った。糸子もまた兄の香りを吸い込んだ。重なる二人の呼吸が、夏の風にざわめく葉の音へと溶けてゆく。
 薫はこのとき初めて、壊れそうなほどに強く、強く、糸子を抱き締めたのだった。

 兄と妹は、いつ出て行くことになってもいいように、午後から荷造りを始めた。
 夕暮れ時、二人で正妻の八重子の部屋へと伺う。この部屋もまた、舶来の調度品で溢れ返っていたが、明らかに他の場所よりも豪華に飾り立てられているものばかりだった。
「お忙しいところを申し訳ありません」
「どうされたのです、薫さん」
 ゆったりとした椅子に凭れ掛かる八重子が気怠そうに返事をした。彼女は最近洋装がお気に入りのようで、今日も、くるぶしまで丈のあるワンピイスを召している。
「僕たちは、ここを出ます。短い間でしたが、大変お世話になりました」
「あら、そうなの?」
「母が亡くなった以上、僕たちがここにいるのは、ご迷惑をお掛けするだけですので。僕は大學を辞めて働きます。これまでの学費はなるべく早くお返しいたします」
「そんなことはいいのよ。あなた方には、役に立っていただかなくてはならないのだから」
「? それはどういう――」
「もうお夕飯のお時間よ。よければ、お食事しながらお話しましょう。ね?」
「……はい」

 八重子とともに食堂へ入った薫と糸子は、いつもの席に並んで座った。男爵は出掛けているようだった。天井から吊るされたシャンデリアの灯りが、長いテーブルにかけられた真っ白いクロスにぼんやりと光を落としている。
 前菜を食べ、スウプを飲み干す。しばらくして、皿に載せられた魚の切り身のようなものが運ばれた。若草色のソースがたっぷりとかかっている。
「珍しい肉が手に入ったの。癖のあるお味かもしれないけれど、いかがかしら」
「ええ、そうですね」
 口にした薫が答えたあと、糸子も食べてみたが、苦みが広がり、美味しいとは感じられなかった。我慢して、もう一切れ口にするが、やはり苦みは消えない。
 兄は苦くないのだろうかと糸子が顔を上げた瞬間、八重子が低い声で言い放った。
「それね、人魚の肉なのよ」
 夫人の唇は弧を描き、三日月のように薄い笑みを浮かべている。背筋がぞおっとした糸子は、フォークを持つ手を止めた。
「人魚の肉、ですか?」
「そうよ。どう? 美味しい?」
「……ええ、まぁ」
 答えつつも、薫はフォークを皿に置いた。
「ねえ、薫さん。こんな話をご存じ? 人魚の肉は不老長寿の妙薬。歳を取らないだけではなく、病気や怪我もたちどころに治ってしまうというお話を」
 ワイングラスを持ち上げた八重子は、薄笑いしたまま薫に向かって続けた。
「そのように貴重なものなのだから、もっと味わいなさいな」
「本当でしょうか。伝説とばかり思っていましたが、そのようなものが手に入るなど」
「私が嘘を吐いているとでも?」
「……いえ」
「私はね、あなた方の為にこれを用意したのです。お母様は病弱でいらっしゃったでしょう? あなた方までお体が弱かったら、お母様も悲しまれるものね。ですから、もっとお食べなさい。糸子さんも」
 見たこともない笑顔を向けられ、糸子は肩をびくりとさせた。
 かび臭い本の中の出来事や、噂や言い伝えに過ぎない存在だと思っていた人魚さま。口にすれば不老長寿になれるという人魚の肉が、このように平然と食卓にのぼるものだろうか。
「糸子」
 呼ばれたほうを向くと、兄が僅かに首を横に振った。これ以上食べてはいけないという示唆だろう。彼に従い、糸子もフォークを皿へ載せた。
「どうなさったの? 早くお食べなさいよ。それとも気づいてしまったのかしら? あなたたちも、あの女のように、もっとぼんやりしていれば良かったのにねえ」
 突然、八重子の口調と表情が変わった。苛立ちを隠せない様子が糸子を怯えさせる。
「あなた方のお母様にお伺いしておいたのよ。人魚の肉の在処を」
「お母様に?」
 尋ねた薫に、八重子が眉を吊り上げた。
「ご存じないの? あなた方の母親はかつて、人魚を捕獲した家の娘だったことを……!」
「そのようなことは、初耳ですが」
「人魚の肉を手に入れた純子さん一家は、当時村八分にされたそうよ。理由はわからないけれど、純子さんのご両親は海に身投げして亡くなっているわ」
 純子の両親ということは、薫と糸子の祖父母になる。
 ワイングラスに注がれた赤い液体は、同じ色の紅をつけた八重子の唇の奥へと吸い込まれていく。八重子は美味しそうに喉を鳴らした。
「村を出た純子さんは野垂れ死にしそうなところを拾われて、一時は芸妓になっていたようね。そこで薫さんのお父様と出会って妾になった」
「何故、そのようなことをご存じなのでしょうか。僕らも知らないことを」
「調べさせてもらったのよ。この堂島家に入るのですから、どのような人間かを知る必要はあるでしょう。私はね、いえ、私たちはね、純子さんは、あれだけ見た目がお若いのだから、人魚の肉をお食べになったのかと思っていたのよ」
「……」
「でもそれは違ったみたい。すぐに死んでしまったもの」
「どういう、意味でしょうか奥様。それ、は……」
「どうなさったの、薫さん」
 八重子が意味深に微笑む。何かを言い返そうとした薫が、椅子から落ちて床へ倒れた。
「お兄様……!」
 兄の傍に行こうと席を立った糸子の視界が、ぐらりと揺れた。足元が崩れ、へなへなと床へ座り込む。
「……糸、子」
 自分を呼ぶ薫のほうへ顔を向けると、眩暈で周りがぐるんぐるんと回り始めた。
「痺れ薬のほうが早く効くのねえ」
 頭上から八重子の嬉しそうな声がした。
「あれこれ騒がれても面倒なのでね。そのお肉に、お薬を少々入れさせていただいたわ。薫さん、痺れる? 体の自由は利かないけれど、痛みはないでしょう。そろそろ意識も無くなるわ」
 上半身の力も抜けた糸子は、冷たい床へ兄のように倒れこんだ。かろうじて彼のほうへ顔を向けたが、それ以上は自分の体を支配できない。
「糸子さんも、もうすぐよ。もうすぐ何もわからなくなりますから、ね?」
 妙に優しい声を聞き、急激に眠気に襲われた。気を強くしていないと、一瞬で落ちてしまいそうな酷い眠気に。
「あなた方にはこれから協力してもらわなければ。勝太郎さん、もういいわ。こちらへいらっしゃい」
「はい、お母様」
 現れたのは、留学していたはずの勝太郎だった。コツコツと靴音が近づき、倒れている兄の背中に勝太郎のものと思われる靴が乗ったのが見えた。
「無様だな。もうこれで生意気な口は利けんぞ」
「ぐっ……あ!」
 強く蹴られた薫が顔を歪めて呻く。彼を助けたいのに、糸子の手は届かない。いや、動かない。
「さあさあ、糸子さんは良いお相手のもとへ行きましょうね。あなたには勿体ないくらいの、素晴らしい縁談があるのよ」
 手首を掴まれ持ち上げられた。ここで兄と離れるわけにはいかない。彼が何をされるかわからない。自分のことよりも、兄が心配でたまらなかった。
「い、や……いや……!」
「うるさい子ね。大野、連れて行ってちょうだい」
「かしこまりました」
 信じられない言葉に、途切れる声で糸子は尋ねる。
「ど、して……おお、のさ……」
 傍にしゃがみ込んだであろう、大野の顔がよく見えない。
「あちらでうんと可愛がってもらいなさいな。……皆さんに」
 八重子の高笑いが頭の中へがんがんと響いた。
 抱き上げられた大野の腕の中で、糸子は床へ横たわっている兄へ目を向けた。こちらを見ていた彼は、震える左手を必死に糸子のほうへ伸ばしている。
「糸、子」
「黙れ」
 糸子を呼んだ兄の手が勝太郎の靴に踏まれた。兄の美しい手が、あの醜い男に……!
 ――お兄様、お兄様……!!
 声を出しているつもりなのに、糸子の唇からは何も発せられなかった。
 眩暈と耳鳴りで意識が虚ろになりかけた時、糸子は八重子の恐ろしい言葉を確かに聞いた。
「あの女、とうとう最期まで肉の在処を教えなかった。知らないなどと、わざとらしい。何と忌々しく憎々しい女よ」
「意外と早く死にましたね」
 薫を足蹴にしながら、勝太郎が答える。
「見込み違いだったようで悔しいわ。でも必ず手に入れてみせます。そうすれば、この堂島家が下位貴族だなどと蔑まれることは金輪際起きようがない。その為に、勝之助様は長い間、人魚を探し続けていらしたのだから」
 大野が歩き出し、抱き上げられている糸子の体が揺れた。眠気に支配された瞼が、ゆっくりと閉じてゆく。
「あの女も、この子らも、人魚の肉が手に入られなければ存在する意味がない。最期にそれぞれ役立ってもらいましょうね」
 眠りたくはない、眠りたくはないのに
「もう少し、あの日本家屋を調べなくては。富張宗一郎が建てた家は、なかなか立派なものだったじゃないの」
 糸子の瞼は完全に閉じ、兄の姿を見ることが出来なくなった。

 在処を教えなかったとは……どういうことだろうか。兄と自分が口にしたのは、人魚の肉ではなかったというのか。母は病気で亡くなったのではなく、堂島家の人間に騙されたのか。男爵さえも、人魚の肉の為に母を欲したというのか。糸子はどこかへ堕ちてゆくような、罪悪感に襲われた。
 私がもっと早くに気づいていれば、お母様はこのようなことにならなかったのかもしれない。私のせいで、お母様が、愛しいお兄様が、このような、目に――

 カラスのぎゃあぎゃあという鳴き声と、八重子の笑い声が響き渡る中、抗うすべもなく、糸子は意識を手放した。