緩やかな日が木立の隙間から差し込み、微笑みの奥に憂いを湛えた兄の顔を照らしていた。
「僕らは人魚さまの肉など食べてはいない」
 彼に見惚れていた糸子は我に返った。
「堂島家で出されたお食事のこと……?」
「そうだ」
 頷いた薫は、自分の左手を糸子の前に差し出した。
「あれはただの魚の白身だろう。その証拠に僕の指はこのままだし、お前の膝に出来た擦り傷も治ってはいない」
「あ」
 儀式の数日前、逃げ出そうとしたときに擦りむいた傷だ。確かに、糸子の膝にはまだ膿が残っていて、じくじくと治りきらないでいる。
「八重子夫人は僕らを捕らえるために人魚さまの肉だと嘘を吐いて、薬入りの魚を食べさせた。ただ、お前が飲まされていた人魚さまの鱗という薬は、体に変化が起きてるのだから本物の可能性が高いだろう。あの村には、人魚さまがいたという伝説が残っていたようだからね」
 本物の人魚さまの鱗が糸子の体内に入り、血となり肉となって奥深くまで染み込んでいる。滋養だと信じて飲んでいたが、効用を知った今では思い起こす度に吐き気がして、変化の起きたこの身が疎ましくさえ感じられる。
 俯いた糸子の気持ちを感じ取ったのか、薫は紙を外套の内ポケットへ仕舞うと、彼女の頬を優しく撫でた。
「糸子は、あの村でお母さまがどのような目に遭ったのか、誰かに教えられはしたか?」
「ええ。マサに聞かされました」
「そうか。歩きながら、その話を僕に聞かせておくれ」
「はい」

 草を踏み分け、林の奥へとまだ入ってゆく。小春日和の呑気な暖かさは、今の二人にはあまりにも不釣り合いに思えた。兄の後をついて歩きながら、糸子はゆっくり口をひらいた。
「お母様のお父様……私たちのお祖父様が、あるとき人魚の肉を見付けた。村には古くから人魚伝説があり、不老長寿をもたらす人魚の肉は高く売れると考えたお祖父様は、売る前に周りの人間へ肉を食べさせ、不老長寿になれるかどうかを確かめようとした」
 村に連れてこられた翌日、マサに教えられたことをそのまま話す。しかし、昨日兄がマサに話した内容とは少し違っていなかったろうか。
「でも、口にした者は皆、不老長寿になるどころかすぐに死んでしまった。お祖父様以外の村人は人魚さまを目にしてはおらず、人魚さまの肉だったのかどうかを怪しまれ、ホラ吹きの罪人としてお祖父様もお祖母様も海へ沈められた。そのとき、お祖父様の父親と私たちのお母様は見つからなかった。翌日、浜で倒れていたところを発見されたお祖父さまの父親、私たちの曽祖父は既に亡くなっていて、お母様は行方知れずだった」
 昨日、マサが毒を盛って村人を殺し、人魚の肉を奪おうとしたと、兄が確認していた。
「そして月日が流れ、お母様の行方がわかったとの知らせを堂島家から教えられた。そのようにマサは言っていました」
「ありがとう、糸子。よくわかったよ」
 糸子の話を聞いて何度も頷いていた薫が、ある場所で立ち止まった。

 何てことのない木立の中に、両手で持ち運べるくらいの石が低く積まれた小さな祠があった。周りには人っ子一人おらず、木々の上で鳥たちが鳴いているだけだ。
「石の祠、か」
「お兄様、これは……?」
「多分ここに、人魚さまの肉がある
 祠の前に二人でしゃがみ、中の空洞を覗き込むが、特に何もない。
 薫はおもむろに石を手に持ち、祠を崩し始めた。罰当たりではないかと怯んだ糸子だが、黙々と石をどかす兄を、出来る範囲で手伝い始めた。
「さきほどの紙には『人魚塚』としか書かれていなかったわ。あとは、よく読めない文字があるくらいで、ここを示すものはなかったように思います」
「人魚さまのご本だよ」
 ところどころ苔が生えた石は、長い時間、誰も手を付けていないことを教えてくれる。
「紙が挟まっていた本の頁は、人魚さまとは関係のない内容であったが、場所を示す文章の書かれた箇所がある。ここは人魚塚からの距離と方角がぴたりと当てはまった場所だ」
「では紙を挟んでおいたのは、軍人のお父様なの? あのご本は軍人のお父様のものだわ」
「紙を挟んだのはお父様だが、紙に文字を書いたのは僕らのお祖父様である弥一の父親……村から人魚の肉を持ち出した曽祖父だ」
「持ち出した……?」
「ホラ吹きの罪人として祖父母が制裁される直前、曽祖父殿が僕らのお母様を連れて人魚の肉を手に、家を出た。家に肉があれば、幼いお母様まで処分される可能性があると思ったのかもしれない。浜辺に打ち上げられていたのは、焦った曽祖父殿が、人魚さまの肉を隠したあと、どこかで足を踏み外して海に落ちたといったところだろう。一人になったお母様は奇跡的に村を逃げ出すことに成功した」
「でも、ここまで来たのなら二人とも村を抜け出せたということよね。それに、曽祖父殿はお母様を連れて、どのようにしてここまでいらしたのかしら。ここはあの村から、とても距離があるように思うのだけれど」
「僕の推測を聞いてくれ。多分、間違ってはいないと思う」
 風に吹かれた落ち葉が、糸子の傍でかさかさと音を立てた。
「伝説によれば人魚の肉は不老不死どころか、付けられた傷はたちどころに治り、病さえも寄せ付けない。もしも、人魚の肉を食べた人間を戦に使えばどうなると思う?」
 傷ついても死なない。
 その場で治り、何度でも甦る。
 戦の場で有り得ないことが、起きてしまう。
「……それは、想像したくもない、嫌なお話だわ」
「軍人であったお父様は人魚の肉を探すように上から命じられた一人で、お母様の存在を知り、近づいた」
「え」
「有り得ない話ではないだろう」

 全ての石を除けると、ふかふかとした土が現れた。枯れ葉を詰めて腐らせたような跡だ。薫は荷物の中から取り出した手袋をはめ、携帯用の小円匙で土を掘り始めた。
「お父様は目的のためにお母様を妾にされたが、一緒に過ごすうちにお母様に情が移ったのではないかと思う。あの紙切れは、幼いお母様が曽祖父殿から預かり、ずっと持っていたものなんだろう」
 幼い母はどこかで拾われ、その後芸妓として身を立てていたという。
「曽祖父殿は子孫に人魚さまの肉の在処を伝えたかったが、お母様は幼すぎて、あの紙に書かれた意味を、よくわかっていなかったのではないかと思う。人魚伝説のある村の情報を得、お母様を見付け出した軍人のお父様が、紙切れに書かれたことを元に隠された人魚さまの肉を見付けた。曽祖父殿が人魚さまの肉を埋めた場所は、遠くても村の外れくらいの場所だったのではないかと思うんだ。ただ、正確な場所がわからないように、不自然に紙が切れている」
 薫は一旦手を止め、懐から紙を取り出して糸子に渡した。
「……本当だわ」
「人魚さまの肉を見付けたお父様は紙を千切り、別の場所に肉を隠して、お母様が人魚さまとは関係がなかったことにしたかったんじゃないかな。僕が幼い頃、お父様が亡くなるまで、お母様は幸せに過ごされていたようだし。お父様は新たに肉を隠した場所を自分で覚えておくために、場所を示すような文章の書かれた頁を人魚さまの本から偶然見つけ、紙を挟んでおいた」
「その新たな隠し場所が、ここなのね」
「そうだ。人魚さまのご本は堂島家へ入る前に、お母様が処分してしまったんだよ。本だけじゃない、軍人のお父様の物も、富張のお父様の物も、ほとんど処分されていた」
「男爵様の家にお世話になるから……かしら」
「だろうね。でも僕は、その紙切れが何となく気になって、自分で持っていたんだ。本が挟まっていた頁の内容もよく覚えていた。まさか、こんなふうに役立つとは思わなかったが」
 頭の良い兄らしい、と糸子は思った。彼は漢文などは短文長文に関わらず、丸暗記が得意だったのを覚えている。
「あの、お兄様は私が捉えられた場所を、どうやって知ったの?」
「大野さんに聞いた。彼が話してくれた内容は、糸子がマサに聞いた話と同じだったよ」
「なぜ、大野さんが」
「糸子をあの村まで運んだのは大野さんだ。村の位置や、僕らが通った洞穴も、マサが毒を盛った話も、教えてくれたのは大野さんだ」
「そんな……!」
「彼もまた、堂島家の犠牲者なんだよ」
 かちり、と音がして、糸子の疑問は遮られた。
「見てごらん、糸子」
 穴を覗くと、何やら黒々とした堅そうな丸いものが顔を出している。
「木箱はほとんど腐っている。この分だと肉も駄目だろうか」
 ぼろぼろの木屑を払いのけると、縄で括られた甕(かめ)が出てきた。
「これは漁で使う縄だな。曽祖父殿が巻いたのか」
 薫は小刀を手にして縄を切り……あっさりと封印を解いた。
 甕の蓋を開ける。何も臭わない。布に包まれた何かが入っている。その上に畳まれた紙が載っていた。
 中へ手を入れた薫は、布に包まれたものを取り出した。両掌に収まる大きさの、何重にもくるんだそれを静かにひらいてゆく。
「あ、ああ……!」
 薫の驚嘆とともに、現れた。
 薄桃色をした、魚のようで魚でない、牛や鶏のようでない、肉。不思議なことに乾燥もせず新鮮な色を保っている。十切れほどの肉は、たった今捌いたかのように瑞々しい。
「これが人魚の肉なんだよ、糸子……!」
 歓喜の声を上げた薫は、ともに入っていた紙を片手で広げてちらりと見た。一瞬、戸惑いの表情を乗せた薫の顔が、糸子の目に焼き付く。
「何と書いてあったの、お兄様」
「いや、掠れてほとんど読めないよ」
 苦笑した薫は紙をくしゃりと握り、外套のポケットへ突っ込んだ。日が陰りはじめ、吹いてくる風が冷たくなっている。

 糸子は兄の手元にある肉を見つめて、疑問を口にした。
「マサはこの肉に毒を盛ったのでしょう? そのことも大野さんに聞いていたの? もしやこのお肉にも毒が……?」
「堂島男爵が調べ済みのことを、大野さんが教えてくれた。マサは、糸子が捉えられていたお屋敷の主、勇夫の先代の女中頭だったそうだ。妾になりたがるマサを煙たがった先代が、万が一人魚さまの肉を手に入れてくれば、マサを妾として迎えると約束した。マサは人魚さまに纏わる伝説や儀式のことを血眼になって調べ、知識を身に付けた」
 シゲやナミオの前で、マサの言うことは絶対であった。勇夫さえも、儀式の日取りはマサに従っていた。
「その後、僕らのお祖父様が人魚さまの肉を手に入れたと知ったマサは、肉を食する席に忍び込み、こっそり毒を仕込んだ。その場に同席していたのかもしれないね。マサは祖父母様を海に沈めてから毒の付いていない残りの肉を奪い、勇夫の先代へ真実を話し、人魚さまの肉を渡そうとしたんだ。が、その肉は曽祖父殿が持ち出して隠してしまった。マサは計画に失敗したのさ」
 マサが糸子に見せた嫌悪の表情は、肉を奪えず目的を果たせなかった恨みからだと理解した。糸子へ躊躇いなく子を産めなくする薬を飲ませ、男衆に差し出そうとした……老婆の心根を。
「先代は死んでしまい、念願叶わなかったマサは、僕らのお母様を探し出すことに躍起になった。人魚さまの肉を探すことよりも、儀式の犠牲者に仕立て上げる為にね」
「お母様が、私と同じ目に……!」
 糸子の体が震えた。
「マサは自分の叶わぬ欲の為に、曽祖父殿やお母様を逆恨みしたのさ。当然、お母様の子どもである僕らのことも、ね」
「ひどいわ、ひどい……!」
 涙声の糸子へ、薫が優しく囁いた。
「僕が処分したからね、もう大丈夫。お前も見ていただろう? あの醜い老婆の最期を」
 薫があのように容赦なくマサを海へ落としたのは、当然のことであったのだ。安堵して頷いた糸子は涙を吹き、再び人魚さまの肉へ視線を落とした。
「これは本当に、本物?」
「固く封じられていたのに腐りも乾燥もしていない。こんな不思議なことってあるかい? 何より、本物ではないと証明できないことが証拠だ。皆、こんなものの為に、血みどろになって……こんなものを、探すために……ははっ、ははは……!」
 さも馬鹿らしい、といった笑い声だった。
 このような兄の笑い声を聴くのは生まれて初めてかもしれない。動揺した糸子が笑い続ける薫を見つめていると、突然何かを吹っ切ったように、彼がすっくと立ち上がった。
「帰ろう糸子。もうこんな場所は用無しだ。疲れただろう? 帰ってゆっくり休もう」
「堂島家に?」
「そうだよ。何も心配することはないと言ったじゃないか。さあ、僕と一緒に行こう」
 右手に肉を持ち、左手の手袋を口に咥えて外した薫は、その左手を糸子に差し出した。
 痛々しく美しい愛しい彼の手が、糸子を引っ張り立ち上がらせる。

 元来た道を歩く薫は、荷物が多いことなど感じさせないほど足取り軽く、また、すこぶる上機嫌であった。

+

 堂島家へ到着したのは、同日の夜も更けた頃であった。
 数か月ぶりに足を踏み入れた堂島家の敷地は、前にもまして何か不穏な気配に満ちているように感じられた。
「お帰りなさいませ、薫様」
「ああ、ただいま」
 玄関ドア前で待っていた執事の大野が頭を下げる。
「糸子お嬢様、お帰りなさいませ」
 男装の糸子にも狼狽えることなく、挨拶をしてきた。
「……ただいま、戻りました」
 薬を飲まされひどい眠気で倒れた自分を、八重子の言われるままに連れ出した大野を思い出し、糸子は表情を硬くした。途端、大野が床に膝を着いて頭を下げた。
「糸子様、いつぞやの御無礼をお許しください。私は、あなたに」
 大野が声を震わせている。
 この人もまた、堂島男爵の犠牲者なのだと聞いた。何があったのか兄から聞いてはいないが、今の糸子に彼を責める気持ちは湧き上がらなかった。
「大丈夫よ。あのようにしたのは、あなたの意志ではないのでしょう? さあ、顔を上げて」
「……」
 ゆっくりと顔を上げた大野は額に深い皺を作り、口を引き結んで沈黙した。

 二階の糸子の部屋で着替えた二人は、同じベッドへ潜った。疲れていた糸子は、久しぶりの薫の匂いに安心して、あっという間に心地よい眠りに落ちた。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。真夜中に目が覚めた糸子は、隣にいるはずの彼がいないことに気付いた。
「お兄様……?」
 月明かりの差し込む部屋を見回しても、どこにもいない。
「ご不浄に行かれたのかしら」
 ため息を吐いて、瞼を閉じようとしたときだった。
 微かに低い唸り声が聴こえた。耳を澄ますと、確かに獣のような声が遠くから聴こえる。
「何……?」
 起き上がり、ベッドからそっと降りた。窓辺に寄って、カーテンの隙間から外を見る。窓の下は暗闇しか存在せず、夜空には星が瞬いているのみで、さきほどの声も聴こえなかった。
「寝ぼけていたのかしら」
 再びベッドに潜り込んで身を縮め、しばらくすると部屋のドアが開いた。薫が戻ってきたことに安心して、再び瞼を閉じる。
 ベッドが軋み、布団へ入ってきた薫が糸子を優しく抱き締めた。糸子が嬉しさに顔を綻ばせたその瞬間、嫌なものが鼻先を掠める。

 薫の体から、血の香りがした。