あ、ダメなやつだ、これ。
 私、秀ちゃんのことお祝いできない。それにもしも、このことがお父さんとお母さんに知られたら。
「……なるほど、そういうこと、ね」
 知られたら困るから、ハガキをわざわざ封筒に入れてきたんだ。私だけに見えるように。こんな恥ずかしいことを私が親に言うわけがない、だからこうしておけば大丈夫。きっとそう思われたんだ。
「はは、舐められてるなー」
 確かにこんなこと、両親には言えない。
 お父さんはそろそろコンビニから帰ってくるだろう。……ここに、いたくない。
「どうしよう」
 といっても、私には選択肢がひとつしかないわけで。

 床に置いたボストンバッグを持ち上げ、その中にハガキの入った封筒を突っ込む。
 部屋を出て一階に降りた私は、リビングにいる母に声をかけた。
「お母さんごめん。私、シェアハウスに戻るね」
「何? どうしたのよ」
「ちょっとやり残したことがあったの。お父さんにもよろしく言っておいて。あ、これお土産。下町のおいしいおせんべいだよ」
 口は動いているのに、会話しているという実感がまるでない。婚約破棄をされたあとの私の状態に戻ってしまったみたいだ。
「星乃」
「ん?」
「顔色が悪いわよ? 何かあったの?」
「別に何もないよ。外が寒かったから、顔色が悪く見えたんでしょ」
「お茶くらい飲んでいけばいいのに」
「ごめん。急いで戻らないとならないんだ」
 極力無理な笑顔にならないよう、笑った。でも母は表情を変えない。悟られたかもしれない。でも今は気づかない振りをしていてほしい。
「気をつけてね。一日には戻ってらっしゃいよ」
「うん、じゃあね」
 母に手を振り、家を出る。
 肩にかけたボストンバッグがやけに、重たい。

 根津駅を降りた私はシェアハウスと反対方向の商店街に寄ることにした。年末の商店街は、お正月に向けて活気づいている。
 まだ二十八日だというのに年越しそばや、つきたてのお餅が、あちこちで売られていた。
「北村さん、今頃何してるんだろう。大掃除とか……してないか」
 十和田さんと石橋さんは北海道の実家へ帰った。
 だからシェアハウスには彼しかいないことはわかってる。それでも実家にいられない私は、シェアハウスに戻るしかなかった。
「よし、大掃除しよう。じっとしててもどうせ考え込むだけだし」
 とはえいえもう夕方になってしまう。掃除は明日の朝にすることに決めた私は、食材とお酒を買いこみ、急いでシェアハウスに向かった。

 冬の夕暮れは、どうしてこんなにも人を心細くさせるのだろうか。
 薄暗さのせいで、葉の落ちた木々の枝が黒く見える。カラスすらとまっていない枝が寒々しい。野良猫たちはどこで寒さをしのいでいるのだろう。
 しんしんと冷え込む中を歩き、ようやくシェアハウスにたどり着いた私は、バッグから鍵を取り出した。
「うう、さむい……ただいま」
 引き戸を開けて玄関に入る。ほわんと、エアコンの暖かさが伝わってきた。私は部屋に行かず、電気のついていないリビングに入った。
「北村さん、自分のお部屋にいるのかな」
 そちらに行ってみるも、明かりは漏れていない。人の気配がない。
 リビングに戻った私は明かりをつけた。食材をキッチンに持ちこもうとしたとき、いないと思っていた人の声がした。
「んー……」
「えっ」
 リビングを見回すと、ソファから足がはみ出している。北村さんだ。
「い、いたんだ。そういえば前にもこんなことがあったっけ」
 起こさないように、そーっとキッチンへ行こうとしたのだけれど。
「加藤、さん?」
「はいいっ!」
 起こしてしまった!
 ドキドキしながら振り向くと、彼は頭を掻きながら寝ぼけまなこでこちらを見ている。
「何……どうしたの。忘れ物?」
「え、えっとー……」
 彼は私の事情を知っているから話してもいいけれど、まだ混乱している私には、うまく説明できる自信がない。
「事情はあとで。とりあえず夕ごはん作るので……ちょっと飲むの、付き合ってくれません?」
「ああ、うん。いいよ」
 彼は、あーあ、とあくびをしながら伸びをした。コーヒーテーブルに置いたメガネを手にして、もう一度伸びをしている。
 なんだろう……よくわからないけど、なんだかホッとした。
「その食材、俺が冷蔵庫に入れとくよ」
「じゃあ、お願い。私、部屋にバッグおいてくるね」
「うん」
 ショックと寒さに固まっていた体が、彼の姿を見ただけで和らいだ感じがする。

 すりゴマと豆乳の出汁を使ったお鍋を作る。
 具材はお豆腐、鳥団子、ほうれん草、にんじん、そしてたっぷりの水菜だ。悶々と食材を切っていく作業はラクだった。料理を作っている間は余計なことを考えなくて済む。
「あとはお新香、と」
 昼間は何も食べることができなかったけど、少しはお腹が空いてきたみたい。
 食べて飲んで……忘れよう。
「お、うまそうじゃん」
 もうひと眠りすると言って部屋にいた北村さんが起きてきた。なんかすごく眠たそうというか、ダルそうというか。昨日まで仕事が忙しかったから、疲れが出ているんだろう。
「とりあえず、えーとお疲れさまでしたー」
「お疲れっしたー」
 なんのお疲れさまかよくわからないけど、とりあえずビールで乾杯をする。
 うん、ビールがおいしい。味がわかるということは、昼間よりは精神的に大丈夫そうだ。
「いただきまーす」
「私も、いただきます」
 コクのある熱いお出汁を啜り、お豆腐を食べた。
「んまいな、これ」
「ありがとう」
 ゴマと豆乳がまったりとお豆腐に絡んでおいしい。私たちはお鍋をつっつき、味の感想を述べあっていた。
 そしてしばらくしたのち、北村さんが核心をついてくる。
「ところで加藤さん」
「はい」
「何があったの? 帰ってきたときものすごい顔色が悪かったけど」
「え……うん、まぁ……なんというか……はは」
 自分で事情はあとで話すと言ったくせに、何をどう言ったらいいのかわからなくなる。
「聞かないほうが、よかった?」
「ううん。あ、ちょっと待ってて」
 いいやもう。あのハガキを見せてしまおう。
 北村さんは私の事情を知っているんだから、そのほうが話が早い。

「へ〜え、ふ〜ん」
 鶴田さんから送られたハガキを見せ、彼女と私と元カレの関係を話すと、北村さんは何度もハガキの表と裏をひっくり返して眺めた。
「傷ついてるところ悪いんだけど、この元カレと別れたのっていつ?」
「ホワイトデーの日だったから、今年の三月」
「なるほど。その二か月後に加藤さんは俺と出会ったわけだ」
「えっと、うん、多分そう」
 確か、北村さんと出会ったのは結婚式の予定日だったはずだから、合っている。
「これを見る限りでは『鶴田さん』の妊娠をきっかけに、元カレは加藤さんとの別れを切り出した、と」
「そういうことなんじゃないかって、思う」
「で、元カレ……男の方からは加藤さんに何も言ってこないんだ?」
「……うん」
「あくまでも、加藤さんの後輩である『鶴田さん』が、加藤さんが付き合っていたこの『男』の子どもを妊娠して結婚するという状況を見せたくて、手紙をよこしたと。そういうことだよね?」
「……」
 息を吸いこんだ私は、小さくうなずいた。
「性格悪い女だなっ!! ぶははっ!!」
 北村さんは天井を見てゲラゲラと笑い転げた。そ、そんなにおかしいことだった? 確かに性格悪いっていうのは、私もちょっと思ったけど……
「ははは、ははー……はーあ。……ねえ、加藤さん」
 笑いすぎて涙が出たのか、北村さんはメガネをはずして目をこすった。
「何?」
「せっかくお誘いがあったんだから、二次会に行ってみればいいじゃん」
 ニヤリと笑った彼は麦茶をぐいっと飲んだ。というか、さっきからビールは進んでいないみたいだし、いつもより食欲がないような気がする。って、そうじゃなくて。
「い、行けるわけないでしょ!? そんなとこ――」
「俺も一緒に行く」
「え」
 北村さんの提案にぎょっとする。
「二次会なんて誰が行ったっていいんだ。加藤さんの付き添いってことで、俺が行くよ」
「どっ、どうして北村さんが」
「悔しいじゃん。ここまでコケにされてさ」
 北村さんが舌打ちとともに放った言葉が、私の胸に突き刺さった。ズキズキと胸が痛む。
 彼はハガキを畳の上に置いた。
「だから俺が新しい彼氏だってことにして、この二人に見せつけてやるんだよ。どうぞご勝手に、こっちもうまくやってるからご心配なく〜ってさ。どう?」
 どうしてか、北村さんのほうが自棄になっているように見えた。
「二次会に乗りこんで、何もかもぶちまけてやろうぜ」
「新しい彼氏って、北村さんが?」
「だから演技だって。……別に演技じゃなくてもいいけど」
「……」
「聞いてる?」
「……うん、聞いてるよ」
「やっぱ行きたくないか」
 私とはもう関係のない人たちだ。
 別に元カレのことなんてもう好きではないし、まったく未練などない。けれど。
 北村さんが私の気持ちを代弁してくれたように思えて、それに気づいた時からずっと胸の痛みが収まらない。
 私はお箸を置いて両手を握りしめた。
「……だってなんか、惨めじゃない? ふたりの幸せな姿をわざわざ見に行って、あのころの何も知らない自分を思い知らされて……なんかさー……悔しい、じゃん」
 涙があふれた。
 北村さんが言った通り、コケにされて悔しいんだ、私は。
 私が元カレを信じきって、もうすぐ結婚だとはしゃいでいたころ、鶴田さんのお腹にはすでに彼の子どもがいたんだろう。そして元カレは彼女を選んだ。私の気持ちなんておかまいなしに。
 それを確かめにこいだなんて、あまりにもバカにされた私がかわいそうすぎる。だから悔しくてたまらないんだ。だから、だから……
「……く、悔しいよ、私……っ、北村さ、んが言ってくれたみたいに、悔しいよ、コケに、されて……」
 自分の気持ちを確かめるために、わざわざ戻ってきたんだ。このシェアハウスに。北村さんがいるシェアハウスに。
 彼に会えば、また泣ける自分に会えると思って。案の定、彼は私が必要な言葉を差し出してくれた。そうして私は今、泣いている。泣けている。
「今夜は慰め、いる?」
 低く優しい声にドキリとした。
 慰めっていうのは、あの夜と同じことだろう。あの時の私には必要だったけれど、今はこうして気持ちを吐きだすことができたから……大丈夫。
「う、ううん……いらな、い」
「そう」
「いらないけど」
「うん」
「……そばに、いて」
「いいよ」
 北村さんは立ち上がって、私のそばに座った。そして私をそっと抱きしめる。
「北村さ――」
「こうしてるだけだから。何もしない」
 私をすっぽり包んだ北村さんの香りが、よけいに私の涙腺をゆるめた。彼と慰め合ったときの体温と匂いを思い出して、よけいに切なくなる。

 ――今夜は慰め、いる?

 そんなことを聞かれたら、すがりつきたくなってしまう。北村さんと出会った日の夜のことを思い出しちゃうよ。
 彼は、ぐすぐすと泣いている私の頭を優しくなでてくれた。
「加藤さん……俺」
「え?」
 急に北村さんの腕の力が強まった。私の肩口に彼が顔をうずめる。
「俺、俺さ……」
「きゃっ」
 そのまま北村さんが私を押し倒し、のしかかってきた。
「ちょ、ちょっと、あの……!」
 焦って動こうとするも、重くてどかすことができない。細身に見えたって男性だ。重いに決まってるし、力だって私よりずっと強い。
 こうなることは予想していなかったけれど、油断した自分がいけない。どうしよう……!
 と、目を泳がせたときだった。
「俺……ぎぼぢ、わる、い」
「へ?」
「目が、回る。……あたま、痛い」
「ちょっ、北村さん!?」

 うなだれた彼は、私の上でぐったりと脱力した。