根津神社を出て大通りに戻った私たちは、道路を渡って根津駅とは反対方面へ歩き始めた。
「このへん、いろんな店があって便利だな」
「……うん」
「どうしたの?」
 曖昧な返事をする私の顔を、北村さんが覗き込む。
「べっ、別に」
「あ、そう」
 咄嗟に「別に」なんて言ってしまったけれど……
 どうしたもこうしたも、あんなことをしておきながら、なんでそう平気な顔をしていられるんだろう。私だけがこんなにも動揺して、バカみたいだ。

 散歩をしているうちに、お昼の時間になってしまった。どうやら谷中まできてしまったらしい。このへんはまだあまり歩いたことがなかった。
「昼メシ食おうよ」
 ブラブラ歩きながら北村さんが言う。
「そばとか、カツ丼とか食いたいなー。加藤さんは?」
「……私は」
 周りを見回し、目についたレトロな建物を指さした。
「あそこがいい」
「喫茶店?」
 私の視線を追った北村さんが怪訝な顔をする。
 ものすごく古い日本家屋の入り口に「コーヒー」の看板が掲げられていた。カフェではなく喫茶店。ここなら甘いものがあるはず。
「そう。ホットケーキとかプリンアラモードとか、そういうのが食べたい」
「え、まだ甘いもん食うの?」
 北村さんは目を丸くして私に問う。さっきたい焼きを食べたばかりだもんね、でもそれでいいの。
「うん、食べたい」
 私の口の横を舐めておきながら知らん顔している北村さんに、意地悪をしたくなったから。
「じゃあ、行くか」
 彼は拒否するでもなく、その店に向かって歩きだした。

 レトロな雰囲気たっぷりの店内に入る。途端に、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐった。席は二階にもあるようだ。
 意外と混んでいることに驚く。もしかして有名店なのだろうか。
「俺、ランチの豚の生姜焼きセットと……単品で卵サンド食っていい?」
 席に着くなり、北村さんは嬉しそうにメニューを指さした。ああ、そうか。喫茶店は甘いものだけじゃなくて、こういう軽食メニューもあるんだっけ。意地悪しようとした思惑が外れて、少し悔しくなる。
「たくさん食べるのね」
「歩きまわったら腹減っちゃって。卵サンドはシェアしようよ。加藤さんは甘いのだけなんでしょ?」
 無邪気な笑顔を向けられた私は、なんだか申し訳なくなってしまった。彼はカツ丼やおそばを食べたかったんだよね。
「……私もランチセットにする」
「いいじゃん、食べなよ」
 注文を取りにきた店員へ、北村さんは豚の生姜焼きランチと卵サンドを、私はハヤシライスのランチセットをお願いした。
「ごめんね」
「何が?」
「私、意地悪言っちゃったの。また甘いもの食べたいって」
「意地悪? なんで?」
「なんとなく、悔しかったから」
「もしかして……あんこの件で?」
 言い当てられた私の胸が、ずきんと痛む。
 というか、どうして私が胸を痛めなければならないんだろう。自分でもよくわからない。
「加藤さん、俺が嘘ついてると思ってない?」
 北村さんはメガネの真ん中を押さえながら、私の顔をまじまじと見つめた。
「嘘?」
「本当はあんこなんてついてなかった、とか思ってそう」
「なっ、それどういう意味――」
「お待たせいたしました」
 言いかけたとき、ランチセットが運ばれた。湯気を立てる生姜焼きとハヤシライスがテーブルに置かれる。卵サンドは卵焼きがはさんであるものだ。
 食事がきたら話を中断せざるをえない。私たちはとりあえず、いただきますをした。
「おいしい!」
 ハヤシライスを食べた私は、思わず声を上げていた。
 濃厚なルーが口のなかでごはんと混ざり合う。舌がとろけそうにおいしい。北村さんも生姜焼きを頬張り、満足そうにうなずいた。
「ああ、すごいうまいな。ここにしてよかった」
「ほんとにそう思ってる?」
「うん。加藤さんの意地悪が役に立ったな、って」
 ニヤリと笑われ、顔が熱くなる。北村さんがさっき言った言葉の意味を知りたいのに、なぜか聞くことができない。
 だって……あんこがついてなかったら、なんのために私の唇の横を舐めたのか、ってことも聞かなくてはならないから。

「このへんはいいな、やっぱり」
 食後のコーヒーを飲み、北村さんが言った。
「今回シェアハウスを始めたのは、実は次のプロジェクトのための実験でもあるんだ」
「次のプロジェクト?」
 私もコーヒーを飲む。酸味の少ないまろやかな味で飲みやすい。
「シェアハウスの企画は、二階堂ハウスが古民家再生プロジェクトの一環として始めたのは知ってるよね」
「うん」
 私はシェアハウスの面接を受けた場所、二階堂ハウスの本社を思い出していた。
「二階堂社長は近いうちに、この近辺で古い町屋作りの建物をリノベーションする。そこを商業複合施設として貸し出すんだ」
「商業、複合施設? いろいろなお店が入るってこと?」
「そう。まだ具体的にどんな店が入るかは決まってないんだけど……たとえば古民家カフェってわかる?」
「うん、知ってる」
「そういう飲食店や、家具屋や雑貨屋とか、とにかく個性的な店が入る複合施設を作る企画を進めている最中だ。古い家屋のリノベーションが実際に使いやすいのか、そしてどういう効果をもたらすのかを、このシェアハウスで知りたいんだ。今後の計画に大いに役立つからね」
 普段北村さんはあまりそういう雰囲気を出さないから忘れてしまうけど、れっきとした社長なのだ。
 のほほんとシェアハウスに住んでいるわけじゃなく、毎日いろいろ考えながら過ごしているのだろう。
「こういう古い喫茶店もいいもんだな、って思った。純喫茶っていうの? 取り入れたら面白いかもしれないな」
「商業施設に入れたら面白いかも、ってことだよね」
「うん。オシャレなカフェもいいけど、そういうのは他にいくらでもあるからさ」
 コーヒーを飲み干した彼は、肘をついて私を見た。
「時に加藤さん」
「……はい?」
 あらたまってなんだろう。
「あなた、この先何か仕事とか決まってます?」
「えっ! な、何も決まってない、ですけど」
 思わず釣られて敬語になってしまった。
 何もしていないのは事実だけど、このままでいいとは思っていない。ただ……まだその気になれないだけで。
「じゃあ加藤さん、俺の会社にきません?」
「きません、って? 何をしに行くの?」
「遊びにくるわけじゃなくて、俺の会社で働かないかってこと」
「……え」
「実は留守番してくれる人がいなくなっちゃうんだよ。パートの人なんだけどね、旦那さんと田舎暮らしするらしくて。たいしたことはしてもらってないんだけど、いなきゃいないでちょっと困るんだ」
 なぜ私を誘うのかという疑問が表情に出てしまったかもしれない。北村さんは背を正し、真剣な顔で私を見た。
「加藤さんがきてくれれば助かる」
「……」
「まぁ、毎日ヒマでしょうがないようだったら、少し考えてみてよ」
「うん」
 何もしないでブラブラしているよりはいいかもしれない。
 でも、彼の会社で働くのはどうだろう。それがいいことなのかどうなのか、よくわからないまま即答はできない。
 私はコーヒーと一緒に、複雑な気持ちを飲みこんだ。

 今夜のシェアハウスは久しぶりに四人そろっている。
 食事の当番がない日だったが、せっかくの機会だ。私は四人分の食事を作って皆を誘った。
 冷蔵庫の残り物を使って天ぷらを作り、天丼にする。あとは、お味噌汁とお新香を添えただけだが皆は喜んでくれた。
 私のとなりに北村さん。彼の正面は十和田さん。そしてそのとなりには石橋さんが着席する。
 いただきますをしたあと、しばらくして私は違和感に気づいた。
 十和田さんが動かしていた箸を止め、北村さんと私を何度も交互に見つめているのだ。
 嫌いなおかずが入っていたのかと心配になる。
「十和田さんどうしたの? 苦手なもの入ってた?」
「ううん入ってない。おいしいよ、ものすごーく」
「そっか、よかった」
 たずねた私に答えてはくれるけれど、にこりともしてくれない。でも怒っているわけではなく、何かを疑っているような表情だ。私は疑問に思いながらも箸を進めた。
 相変わらず男性陣は食べるのが速い。彼らがもう食べ終わるという頃に、十和田さんが話しを始めた。
「私、今日は休みだったから、昨夜仕事の帰りに友だちのところに泊まったのね。それで今日の午前中に帰ってきたんだけど……その時に見ちゃったの」
「見たって何を?」
 彼女の疑問に北村さんが問う。私と石橋さんも顔を上げた。
「北村さんと加藤さんを見かけた」
 どきーんと私の心臓が音を立てる。
 午前中ということは、たい焼きを買っていたとき? それとも、まさか……
「ああ、ふたりで出かけるって言ってたもんな」
 石橋さんがうなずく。
「ふたりで根津神社にいたでしょ?」
 十和田さんが北村さんに問う。ますます私の心臓が激しく音を立てた。
「……いたね」
 北村さんがぼそっと答える。すると十和田さんが身を乗り出した。
「そこで見ちゃったの。二人がキスしてるとこ!」
「ぶっ!」
 お茶を飲んでいた石橋さんが噴きだした。私は何も言えずに固まってしまう。
 キス? って、もしかして口の横を舐められたあの場面を、見られていたの!?
 どういいわけをしようか迷っていると、となりの北村さんがため息をついた。
「キスじゃないですから」
「……は?」
 北村さんの言葉に、十和田さんが顔を歪める。
「加藤さんの顔に、たい焼きのあんこがついていたのを取ってあげただけです」
「どうして敬語なの、北村さん」
「え、敬語だった?」
 すまし顔で北村さんが答えた。どう考えても不自然だよね、それ。
「動揺しすぎでしょ北村さん。加藤さんも」
「えっ」
 石橋さんが急にこちらへ振ってくるから、思わず箸を落としそうになる。一瞬の沈黙のあと、十和田さんが続けた。
「……本当に、あんこがついてたの?」
「ついてたよ」
 北村さんは即答し、そしてぽつりと言った。
「……甘かったな」
 部屋に響いた彼の声に、胸がきゅんっと痛くなった。同時に私の顔が熱くなる。
 十和田さんと石橋さんはあんぐりと口を開けて、北村さんを見ていた。
「ごちそうさま。ありがとう加藤さん」
「あ、お粗末さま、でした」
 北村さんは席を立ち、自分の食器をキッチンへ置きに行ってしまった。
 このタイミングで私を残して自分は逃げるわけ? 十和田さんと石橋さんの視線が痛い。ど、どうすればいいの。
「恋愛禁止って言ってたの、北村さんだよね?」
「だよなぁ?」
 二人が顔を見合わせる。私は息を吸いこみ、静かに言葉を発した。
「北村さんが言った通りです。キスでもないし、恋愛でもないですから」

 そういうことなのだ。
 一度体を重ねた私たちだけれど、恋愛の関係ではない。だからシェアハウスもセーフ。そういうことだよね、北村さん。