午前十時半にリビングで待ち合わせ、と言っていた。
 支度をして階下へ降りると、ちょうど北村さんが部屋から出てきたところだった。
「準備できた?」
「うん」
 彼は紺色の長袖Tシャツにジーンズ姿。今日は涼しかったので、私も紺色の長袖カットソーにカーキ色のパンツを履いている。なんだかおそろいのように見えて気まずい。
 デニムの後ろポケットにお財布を突っ込みながら、北村さんがスニーカーを履いている。私も下駄箱からスニーカーを出した。ますますおそろいっぽいけれど、しょうがないよね。
「そういえば、どこに行くの?」
 北村さんの背中に尋ねた。

 ゆうべ、食事をしていたときに北村さんに誘われた「お出かけ」。
 それきり彼とは会えなかったから、どこに行くのかさっぱりわからなかった。近所とは言っていたけれど……
 彼がガラリと木の引き戸を開ける。朝から曇り空のせいだろう。ひんやりとした秋の空気が玄関に入りこんできた。
「たい焼き」
「え?」
「一緒に買いに行こうって約束したでしょ」
 私を見る北村さんが、メガネの真ん中を押さえた。言われて、一瞬考える。
「そういえば……そんな約束したかも」
「したかもって。覚えてないの?」
 北村さんが苦笑する。
 逆に彼が覚えていたことのほうが驚きだ。だってあれは確か、ここに引っ越して翌日くらいに約束したんじゃなかった? 
 それに昨夜の感じだと、ただたい焼きを買いたかっただけには思えないんだけどな。

 てくてくと路地を歩き、大通りに出る。通り沿いに進んでいくと、遠くからでもお店の前に行列ができているのがわかった。
「うわっ、もうあんなに並んでるのか」
「すごい人気店だよね。食べるのが楽しみ」
「俺も楽しみ」
 嬉しそうに笑いかけてくるので、私も笑顔を返した。北村さん、昨日は不機嫌だったけど、今日は楽しそうでよかった。
 行列の最後尾に並ぶ。前には十人以上の人が待っていた。
 このたい焼き屋さんは老舗の人気店だ。店内で食べるような場所はなく、全員が持ち帰り。それでも毎日、人が途絶えることはないのだ。どんな味なのか、早く味わってみたい。
「ねえ、加藤さん」
「ん?」
「昨日、なんかあったの?」
 前に進みながら彼が聞いてきた。
「え、なんで?」
 なんのことかわからず、私は首を傾げた。何かあったっけ?
「なんとなくそう思ったから。昨日の朝、加藤さんの顔色が悪かったような気がして」
「あ……」
 そういえば昨日の朝、悪夢を見たんだ。
 結婚式の当日だというのに、彼が別のウェディングドレス姿の女性と一緒にどこかへ行ってしまうという、最悪の夢を。
 そのまま起きてリビングに行くと、会社に行く北村さんと会ったんだ。すれ違ったくらいなのに……よく見てる。
 私と行動が似ている北村さんは、どうなんだろう。
「北村さんは……夢を見たりしない?」
「夢は見るけど、ってなんの夢?」
「……なんでもない。心配かけてごめんなさい」
 こんなこと話してもしょうがないか。香ばしい匂いがだんだん近づいてくる。
「ああ、もしかして元カレの夢?」
 胸がずきっと痛んだ。
「う、うん。まぁ、そう」
 いきなりあててくるということは、もしかして彼も……?
「今でも見るんだ?」
「どうでもいいはずだったのに、彼の夢を見てしまった自分に嫌悪してる」
 心の底で未練がましくしている自分がいるのかと思うと、考えるのもいやになる。
「俺はもう、元カノの夢は見なくなったよ」
「そう、なの?」
 北村さんも見ているのかと思ったのに、違うんだ。軽くショックを覚えた私は、小さくため息をつきながらお財布の用意をした。
「あの日まではよく見てたけど」
「あの日?」
「加藤さんに出会った日」
「え」
 私の顔を見た北村さんが優しく微笑んだ。
「俺、加藤さんに救われたんだわ」
 胸がきゅんと痛くなったと同時に、大通りを行く車がパパーッとクラクションを鳴らした。一瞬、時が止まったかのように、私の体が動けなくなる。
「そ、それは――」
「はい、いらっしゃい。おいくつで?」
 順番がきてしまった。
 たい焼きを受け渡す人が私たちに聞く。ガラス戸の向こうでは、せっせとたい焼きを焼く職人さんがいた。
「ふたつください」
「はい、ふたつ! 少々お待ちくださいね〜」

 ――それは、私のセリフなのに。
 男なんてみんな同じ。元カレとあんなことになってしばらくは、そう思っていた。
 でも、女なんてみんな同じ。北村さんだってそう思っていただろう。
 なのに、慰めてくれた。あの夜、私のために精いっぱい自分をぶつけてくれた、と思う。それによって私は救われたんだ。
 ……ああ、そうだ。私、彼に会ったら言いたいことがあったんだ。「救ってくれてありがとう」って。でも先に言われてしまったら、言えなくなっちゃうよ。

 たい焼きを受け取った私たちは、近くの根津神社へ行くことにした。
「俺、もう食っちゃっていい?」
 北村さんは歩きながら、どうにも待ちきれない様子だ。私だって焼きたてを食べたい。
「私もちょっとだけ食べちゃおうかな」
「よし、いただきますっ」
「私もいただきます」
 白い紙に包まれた焼きたてのたい焼きを、しっぽからかじる。
「あっつ……! うわ、うまっ」
「皮がパリッパリだね、おいしい!」
 あんこがたっぷりのたい焼きは、皮が薄く、パリパリだ。熱々のあんこが甘すぎず、とてもおいしい。一度食べ出したら止まらず、結局私たちは神社に着く前に、全部たいらげてしまった。
 これだけおいしいのだから行列ができるのも納得だ。

 文豪に愛された神社として有名な、国の重要文化財である根津神社に到着した。
 大きな鳥居をくぐり、立派な赤い楼門を通る。集まった鳩たちが境内を歩いている。近くの保育園の子どもたちだろうか、先生と一緒に楽しそうに遊んでいる。
 手水舎で手や口を清めた私たちは、唐門をすぎて拝殿の前へ。総漆塗りの華麗な建物が素晴らしかった。
 参拝を終え、北村さんとふたりで境内をぐるりと歩いた。途中、巨大な銀杏の木が何本もある。秋が深まれば素晴らしい紅葉が見られるのだろう。
 しばらく行くと、小さな鳥居が連なっている場所にたどり着いた。
「乙女稲荷神社(おとめいなりじんじゃ)?」
 赤い、人ひとりが通れるくらいの小さな鳥居が続いている。
「へえ、京都の伏見稲荷神社みたいだな。小さいけど」
「うん、小さくてかわいい」
 わくわくしながら鳥居をくぐり、北村さんのあとをついていく。鳥居はゆったりとした上り坂になっていた。
 先ほどの拝殿が近いはずなのだが、ここは人が少なく静かだ。木々が深く生い茂っている。土の匂いが濃い。そばをバサバサと鳥が飛び去った。
 奉納された鳥居のなかはどこか神秘的で、別世界にいざなわれていくような気持ちにさせられた。
「ここが神社かな?」
 彼が足を止めた。まだ先には鳥居が続いているが、木々の生い茂る側に神社があった。鳥居同様、神社も小さくかわいらしい。私たちは賽銭箱に小銭を投げ入れ、お参りをした。
 振り向くと、そこは境内から高い位置になっていた。張り出された場所から周りを眺める。
「ここ、いいね」
「ああ、そうだね」
 紅葉前の緑が気持ちよかった。
 雲間から日ざしが見えている。午後は晴れるかもしれない。洗濯しておけばよかったかな。
 ぼんやり考えていると、いつの間にか北村さんがすぐそばにいた。
「あのさ」
 彼は真剣な顔でこちらを見ている。 ドキドキと心臓が大きく音を立てた。どうしたのだろう。
「……何?」
「ついてる」
「え? ついてる?」
「あんこ、口の横に」
「ほんと!?」
 とっくに食べ終わっていたのに、くっついたまま歩き回っていたなんて、恥ずかしすぎる。
 あわてて口元に手をやろうとしたのに、北村さんにその手を取られた。なぜか彼はメガネを外している。
「えっ」
 逃げる間もなく。
 迫ってきた北村さんに、口の横をぺろりと舐められた。

「取れたよ」
 にっと笑った彼は私の手を放し、まだ先へ続いている鳥居のほうへ歩き始めた。