新しいシーツの上で寝返りを打つ。とてもいい気持ちだ。蒸し暑くもなく、ぐっすりと眠れた気がする。
「んー……」
 枕もとのスマホを探った。九時二十分と表示されている。
「もうちょっと寝よ」
 いつもは十時過ぎに目が覚めるのに、今日はいつもより早く目が覚めてしまった。昨夜、そんなに早く寝たんだっけ……?
「って、違う!」
 がばっと起き上がって辺りを見まわす。窓際の障子から入る柔らかな光が部屋を明るくしていた。
 ここは昨日、私が引っ越してきたシェアハウスの部屋だ。そう気づいた私は急いで立ち上がり、身支度を整えた。

 階下へ降りていく。リビング壁にかかった時計は九時半を過ぎたところ。
「おはよう、ございまー……す」
 そろりと板張りを踏み、あいさつをした。が、やはり誰もいない。
「皆、出勤しちゃったか」
 昨夜はここに皆で集まって、ピザの宅配を頼み、缶ビールを開けて、自己紹介の続きをした。
 石橋さんは文房具会社の営業をしていると言っていた。
 十和田さんはアパレルメーカーの販売だと教えてもらった、と思う。
 そしてもちろん、北村さんは建設会社の社長。
 お互いまだ緊張感があるのか、それほど砕けた会話でもなかったけれど、皆いい人そうで安心したんだよね。
 そう、安心しすぎてぐっすり眠ってしまったんだ、私。
 そのうえ、この家はいたるところでいい香りがするから、よけいに心地よくなってしまう。新しい畳や無垢の床材のおかげだろう。

 しんとしたリビングを通ってキッチンへ行く。
「涼しい。エアコンつけっぱなしになってる」
 私がいるから気を遣ってくれたのだろうか。
 リビングの隣は広々とした十畳の和室。大きな障子を明け放すと、リビングとつながる仕組みだ。大きな座卓が真ん中に置かれ、部屋の隅には座布団が積んであった。冬はこたつになるらしい。
 昨日買っておいたスポドリのペットボトルを冷蔵庫から取り出し、ごくごくと飲んだ。
「さて、と。どうしようかな」
 ぐっと伸びをしてリビングへ戻ろうとした、そのとき。
「んー……」
「きゃっ」
 人の声がリビングから聞こえ、思わず小さく悲鳴を上げた。まだ誰かいたの!?
 振り向いて、ソファに近づく。背もたれに隠れて見えなかった人が、そこにいた。
「き、北村さん?」
 背中を丸めて眠っているのは北村さんだった。Tシャツに綿パン姿の彼は、まぶたをしっかり閉じて自分の左腕を枕にしている。
「……」
 寝てる。すやすや寝てる。仕事は大丈夫なんだろうか。確か今日は、私以外の全員が仕事だと聞いていた。
「あのー……」
 声をかけてみるも、起る気配はない。私は彼のそばにしゃがみ込み、横向きになっている顔を覗いた。

 無防備な顔しちゃって。
 こうしてみても、やっぱりいい顔してる。いい顔、というか私好みの顔だ。
 目の前にある形のいい唇を見ていると、ため息が出た。
 あの夜のことを忘れることはできないし、彼だって忘れているわけじゃない。けれど、これからしばらくはそのことを隠して生活する。隠して、というかなかったことにして……? このシェアハウスでは恋愛関係になってはいけないのだから、そう捉えたほうがいいんだろう。

 それはそうとして。やっぱり起こしたほうがいいのかな。
「あの、北村さん」
「ん……」
 私の声に反応した彼は、仰向けになりながら眠そうに目をこする。
「北村さん、朝ですよ」
「た、たい焼きっ!?」
 突然、彼が叫びながら起き上がった。驚いた私は、その場に尻餅をついてしまった。
「な、何……!?」
 間抜けな声を出した私を、北村さんが振り向く。
「あ……加藤、さん?」
「は、はい」
 寝ぼけたのだろうか。彼はうつろにしていた目を、もう一度こすった。
「俺、今何か言いました?」
「たい焼き、って」
「……たい焼き? ああ、そうか」
 こちらを見た彼の視線に、私の胸がずきんとした。
 一夜を過ごした翌朝、泣いている私の頭を撫でた彼を思い出したからだ。
 髪ははねて、寝ぼけた顔をして、無防備な表情をさらしていた、あのときの北村さんと同じに見える。
「昨日俺……たい焼き屋を探してたんですよね。結局買えなかったんだけど」
「たい焼き屋さんなら私も行きましたよ。すごい行列のところですよね?」
 私は悟られないよう小さく息を吸い込み、何でもないフリをして話を繋いだ。
「そう、それ」
「あとから戻ったら、もう売り切れで」
「じゃあ俺が休みの日に一緒に行きましょうか」
「えっと、はい」
「買っておいてもらうのもアリだけど、焼きたてを食べたいから」
 微笑んだ彼の顔に見とれながらハッとする。
「って、そうじゃなくて。北村さん、お仕事は平気なんですか?」
「平気って?」
「だって時間……ほら、もう十時ですよ」
 温かみのある丸い木製の掛け時計を指さす。
「ああ、今日は昼前に出ればいいから大丈夫です。朝メシ食ったら眠くなっちゃって」
「そうだったんですか。起こしちゃってごめんなさい」
「いや、全然。せっかくだから支度してきます。……シャワー浴びてこよ」
 ソファから立ち上がった北村さんは、自室へ行ってしまった。

 キッチンへ入り、冷蔵庫を開けて中を確認する。トマト、レタス、じゃがいもなどの野菜や、お米とパスタにそうめん。冷蔵品はハム、卵、チーズなど。冷凍品はお取り寄せのパンまであった。これらはすべて、昨日、二階堂ハウスから届いた私たちへのお祝いだ。今朝は皆、パンを食べたらしく、その分だけ減っている。
「私もパン食べよ」
 冷凍の食パンをオーブントースターへ入れ、焼ける間にレタスを洗ってちぎり、トマトを輪切りにした。
「卵焼きしようかな」
 ブランチにしようと思った私は、パンの上に乗せるものを増やすことにする。
 軽く焼いた食パンにマヨネーズを薄く塗り、先ほどのレタスとトマト、ハムとスライスチーズを一枚ずつ重ねる。最後に甘めに平たく焼いた卵焼きを乗せた。
「我ながらおいしそう」
 コーヒーとともに、いそいそと和室へ運ぶ。窓際に座布団を置き、座って手を合わせた。外は今日もいいお天気だ。
「いただきます」
 大きな口を開けてボリュームのあるパンにかぶりつく。バターが効いたパンはとても香ばしく、ハムとチーズの塩気がちょうどいい。
「このトマトおいしい。どこのだろう? ……あ」
 シャワーを終えた北村さんが和室を覗いていた。じっと私のほうを見ている。
「な、何ですか?」
「うまそうだなと思って」
「うまいですよ」
「ふうん」
「朝ごはん、食べたんですよね?」
「ロールパン一個」
 タオルでわしわしと髪を拭きながら和室に入ってきた。彼の視線は私の手元から離れない。まさかこれを食べたいとか?
 それならもうひとつ作りましょうか、と提案しようとしたのに、別の言葉が私の口をついて出た。
「ひとくち食べます?」
 だって北村さんの表情がそんなふうに見えたから。大胆だったかなと後悔する前に、彼が返事をした。
「いいんですか?」
「ど、どうぞ」
「あ、持っててください。かぶりつくから」
 パンをお皿に置こうとした私を北村さんが止めた。びくりと肩を揺らす私のそばにしゃがんだ彼は、大きく口を開ける。そろそろとパンを持ち上げて彼に差し出した。がぶりとかみついた拍子に、北村さんのシャンプーの香りが私の鼻をかすめる。
「うまっ」
 もぐもぐとしながら、北村さんは目を丸くした。
「でしょ?」
 居酒屋で焼き鳥を食べる私へ彼が言ったように、同じ言葉を返してみる。
「うん、ごちそうさま」
 彼はマヨネーズのついた唇をぺろりと舐めた。
 いちいち動揺しているのは私だけなのかと思うと、何だか悔しい。

 食後、しばらく和室でゆっくりしていると、支度を終えた北村さんが「行ってきます」と玄関へ向かった。見送りするために私も玄関へ行く。
 彼はこざっぱりしたサックスブルーのシャツに、グレーのパンツを穿いていた。
「今夜は俺が食事当番なんで」
 靴べらを片付けながら、北村さんが言う。昨夜彼は「俺が手始めに食事を作ります」と、食事当番を買って出たのだ。
「そうでしたけど、お仕事遅いんじゃないんですか?」
「今日はお客さんのところから直帰なので大丈夫です」
 一日中ここにいる私が、仕事に行っている人に食事を作ってもらうのも申し訳ない気持ちになるけれど、そういう決まりなのだから仕方がない。
「嫌いなものあります?」
 大きな引き戸に手をかけ、北村さんが顔だけ振り向いた。
「特にないです。あ、ウニがちょっと苦手かな」
「ウニ嫌いなの!? って、ウニを使う予定はないですけど、そうか、ウニが嫌いか……」
 そんな人間がこの世にいるのか、と呟いている。
 よく言われるけれど、苦手なものは苦手なんだってば。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 引き戸を開けた北村さんは、急にこちらを向いた。そしてぺこりと頭を下げる。
「一年間、よろしくお願いします」
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」
 つられた私も急いで頭を下げた。

 本当に変な関係だと、しみじみ胸に思う。
 一歩引いた関係でいるほうがお互いのためなのはわかるのに。なんとなく寂しい気もちがしたのは、なぜなんだろう。