「香ばしい匂いがする。どこだろう?」
 焼き鳥の香りではない。おせんべのような、いい香りだ。私は鼻を引くつかせながら、ゆるゆると歩いていく。
「たい焼き屋さん……?」
 おいしい匂いの正体を見つけて驚いた。
 今日は八月下旬の水曜日、平日だ。そして時間はまだ午前の十時四十分。朝早くから小さなお店の前には行列ができている。たい焼きしか売ってないみたいだけど、すごい人の数だ。そんなにおいしいたい焼きなのかな。

 ここは東京の下町、谷根千(やねせん)と呼ばれる場所。谷中、根津、千駄木で「谷根千」と言うらしい。最近、女子系の雑誌で取り上げられることが多いところだ。とはいえ、根津は初めて降りる駅だから、周辺がどうなっているのかさっぱりわからない。
 地下鉄を出て大通りを歩いてた私は、とりあえずシェアハウスまでの道のりをぶらぶら歩いていた。

 二階堂ハウスで面接をし、北村さんと再会してから一週間後。私は本当にシェアハウスのメンバーに合格していた。
 その後、二階堂ハウスの人に、二階堂ハウスの本社から車でシェアハウスまで連れてきてもらい、北村さん以外の他のメンバーとともにリノベーションされた古民家を見学した。それが今から一か月前のこと。

 そして、いよいよ今日が引っ越しの日なのだ。
 元カレとの思い出の品をバッシバシ捨てまくった私は、ついでにデート服や靴まで捨ててしまったので、自分の持ち物自体が異様に少なくなっていた。
 さらに、二階堂ハウスと提携したインテリアショップから、家具も寝具も家電も何もかも提供してもらっているので、引っ越しに運び入れるのは少ない洋服と身の回りのものくらいだった。いずれ働くにしても今はまだ無職なのでスーツ類も持たなくていい。
 ということで、段ボール二箱分の宅配便で引っ越しは終わり。何か足りなければ買えばいいし、実家から送ってもらえばいいと、私は楽観的に考えていた。
 荷物はお昼頃に届くはずだから、それまでにシェアハウスに着けばいいのだ。
「だからラクチン、ラクチン……と、あれ?」
 路地に入ったはいいものの、狭い道があちこちにあるため、うろうろしているうちに迷ってしまった。途中、おいしそうなパン屋さんや、大きな神社、金太郎飴屋さんや、小さなカフェを見つけたりして、寄り道しすぎたらしい。
「そうだ。いったん戻って、やっぱりさっきのたい焼き買っていこう」
 スマホを弄りながらひとりごちる。
 挨拶代わりのお菓子は買ってきたけど、せっかくだもの。あれだけ並んでいるのだから、よっぽどおいしいたい焼きなんだろう。お昼前には到着しているというシェアハウスのメンバーも、きっと喜んでくれるよね。
 うきうきしながら、もと来た道を戻った私は、閑散としているたい焼き店の前で思わず声を上げてしまった。
「もう売り切れ!? う、嘘ぉ!」
 お店はシャッターが閉まっていた。手にしていたスマホで早速そのたい焼き屋さんの店名を検索してみる。
「あー……老舗の大人気店だったんだ、残念」
 また近いうちに来ればいいか。これからはいつでも来れるんだし。

「えーと、こっちだっけ。違うな、こっち?」
 たい焼き屋さんを離れてシェアハウスを目指していた私は、スマホで検索しているにも関わらず、また迷ってしまった。
「ちょっと、宅配便来ちゃうよ。どうしよう」
 焦りながら周りをきょろきょろ見ていると、後ろから声を掛けられた。
「加藤さん?」
「えっ、わ!?」
 振り向いた私は、その人を見て素っ頓狂な声を出してしまった。だってまさか、こんな場所で会うとは夢にも思わなかったから。
「き、北村さん」
「何してるんですか、こんなところで」
 コンビニの袋を片手に提げた彼は、鮮やかなブルーのTシャツに、こなれたジーンズを履いている。普段着に合わせているのか、前に見た眼鏡と少し違うものをかけていた。既に地元の人のように、この場所に溶け込んで見える。
「ちょっと、シェアハウスの場所がわからなくなってしまって」
「ああ、この辺わかりづらいですよね。俺もコンビニ行くのに迷っちゃって。これからシェアハウスに戻るところなんで、一緒に行きましょう」
「はい……お願いします」

 彼と並んで路地裏を歩く。木陰になっている高い塀の上に三毛猫がいた。その猫の先にもう一匹、ハチワレ猫がいる。そこは風が通って涼しそうだ。
 蝉がじーわじーわと鳴き、照りつける太陽はますます空の高いところへ昇っていく。帽子を被る私の額とこめかみに汗が滲んでいた。

 北村さん、何で黙ってるんだろう。いや、私もだけど。だって、何となく言葉が見つからない。彼もそうなのだろうか。

「迷惑でした?」
 路地を曲がったところで、唐突に彼が言った。心臓がどきーんと音を立てる。
「……迷惑って?」
「俺が加藤さんをシェアハウスの住人に選んだこと、です」
 面接後にもらった彼の意味深なメッセージを思い出す。私と一緒にシェアハウスに入れば、元気になれると言いたげだったよね。
 私はトートバッグを肩に掛け直し、言葉を慎重に選んだ。
「迷惑だったらこの話を受けないです。というか、私が選ばれたのは北村さんの独断だったんですか」
 彼もまた言葉を選んでいるのか、一瞬返答が遅れる。
「……俺が加藤さんを押したというのはありますが、他の二人も加藤さんがいいと思ったようですよ」
「そうなんですか? どうして?」
「動機が動機なんで、印象深かったみたいです。もちろんそれだけじゃないですけどね」
「はぁ、なるほど」
 婚約破棄された人なんて、なかなかいないよね。ということは、同じ立場の北村さんと出会ったのは、やっぱり奇跡に近いことなんだろう。

 駅からシェアハウスまでは近いと聞いていたが、私はかなり遠回りをしていたらしく、なかなか辿り着かないように思えた。初めての道だから遠く感じるのかもしれない。
 とても暑い。今、気温は何度くらいなんだろう。
 北村さんが今、何を考えているのか、私には全く見当がつかなかった。息苦しいのは暑さのせいで、彼の隣にいるせいじゃないよね……?
 もう一度彼に会ったら、何て言おうとしてたんだっけ。何を聞こうと――
「ひゃあっ!!」
 突然冷たいものを頬にあてられ、飛び上がる。
「な、何をするんですか、何をっ!」
「いや、暑いのかなって」
 北村さんの手にはコンビニの袋から取り出した、凍ったスポドリがある。どうやらそれを私の頬にあてたらしい。
「うおー、気持ちいい」
 彼も自分の頬にそれをあて、ぎゅっと目をつぶった。その表情を見て、あの夜のことが一瞬で胸によみがえる。北村さんは私を見て、何も感じないのだろうか。
 暑い、じゃなくて今は……熱い。


 ようやく私たちがシェアハウスをする古民家へ辿り着いた。
 大きな古民家の玄関は、立派な木の扉の引き戸になっている。北村さんが鍵を入れて回し、扉を開けた。広い三和土に一歩入ると、新しい木の香りと、エアコンの涼しさが私たちを包んだ。
 サンダルと靴が並んでいる。
「あ、皆さん到着してるんですね」
「ですね。俺がコンビニへ出る前に、お二人ともきてましたよ」
「北村さんは早くに着いてたんですか?」
「朝からずっといました。俺はシェアハウスのメンバーの一人ではありますが、一応ここの責任者なんで」
 彼はこのシェアハウスをリノベーションした設計事務所の社長で、ここに住むことになったのだから、当然といえば当然か。
「加藤さんの荷物はいつ頃届くんでしたっけ」
「お昼には届くはずです」
「そうですか」
 彼と一緒に玄関から上がる。

 私たちが到着した気配を感じたのだろう。
 二階から階段を下りる音が、そして一階の奥からこちらへ向かってくる足音が聞こえた。