「今日から七月か……」
 目が覚めて、枕もとに置いたスマホを見る。十時二十五分。金曜日。天気は曇り時々雨。
「蒸し暑う……」
 リモコンに手を伸ばしてエアコンをつけ、またベッドにごろりと横になった。梅雨真っ盛りのこの時期は、欝々とした気持ちに拍車がかかる。

 婚約指輪を売りに行った日から、一か月半が経っていた。
 その間、私のスマホに北村さんのメッセージが入ることはなかった。私も彼に連絡はしていない。元気になったら連絡するという約束をしたんだ。そんなすぐには立ち直れないよね。
 当然、元カレからも連絡は一切ない。別にもう、あんな男のことはどうでもいいんだけど。うん、はい、どうでもいい。

「あーあ、寝ても寝ても寝足りない」
 自分を癒してあげる時間だと割り切った私は、毎日が夏休みのごとく寝坊しまくり、そのうえ二度寝や昼寝までしていた。
 今朝も一回トイレに行って、また眠ってしまったのだ。
「星乃ー? 起きてるのー?」
 階下から母の声が飛んでくる。ベッドからのろのろと起き上がり、ドアを開けて返事をした。
「んー、起きてるよー」
「じゃあ降りてらっしゃい。横浜のおばちゃん来てるのよ」
「あ、はーい」
 まずい、まずい。思いっきりだらけてる生活がバレてしまう。よれよれの部屋着から、少しだけマシな部屋着に着替えて階下へ降りる。

 横浜のおばちゃんというのは、私の母の妹、つまり私の叔母のことだ。母と叔母は仲が良く、しょっちゅう家を行き来している。
 リビングに入ると、ダイニングテーブルに二人がいた。
「こんにちはー」
「星乃ちゃん、お邪魔してます。そろそろ元気出た〜?」
 無邪気に笑いかけられ、顔がひきつる。
「うーん……まぁまぁ、かな」
 いつも明るい叔母のことは小さな頃から大好きなんだけど、今はその明るさがちょっとつらい。
「まぁ、そうよね〜。でも若いんだから、どんどん次にいきなさいよ? 次に」
「ははは。……そうねー」
 力なく苦笑しながらキッチンへ入る。暑いし、全然食欲がない。とりあえず冷蔵庫を開けてオレンジジュースの入ったボトルを手にした。
「ねーえ星乃。秀(ひで)ちゃん結婚決まったんだって」
「えっ! 秀ちゃんが!?」
 グラスに注いでいたジュースを零しそうになった。秀ちゃんは叔母の息子で、年は私の三つ下の従弟だ。
「秀ちゃん、よかったね。でも最近の男子としては結婚早くない?」
 カウンターから顔を出して、そばにいる叔母に声をかける。
「そうなんだけどね、どうしてもってきかないのよ。まぁ、結婚できないよりいいか、ってことでね。お父さんも喜んでるし」
 ふう、とため息を吐きつつも、叔母は嬉しそうだ。
「結婚式は?」
「まだ何も決まってないの。上手くいけば今年中になるのかしらね。その前に両家の食事会だの、結納だの、いろいろあるでしょう? 初めてのことだからわからなくて、お父さんも私も周りの人に聞きまくってるところよ」
「……ふーん」
 ちらりとこちらを見た叔母の視線を咄嗟に逃れ、立ったままでオレンジジュースをがっと飲んだ。
 おめでたいことだけどさ。私に聞いたって、何にも参考にならないよ? そんなに失敗談が聞きたい?
 というオーラを全身から醸し出して、針のムシロ状態にならないよう、見えない防御を張りまくる。
 それを感じ取ったのか、母が話題を変えてくれた。
「星乃、お昼食べる? おばちゃんと、うどんでも食べようかって言ってるんだけど」
「ううん、私はいらない。これから部屋で就職先探す。じゃあおばちゃん、ごゆっくり〜」
「はい、ありがとうね」
 秀ちゃんもとうとう結婚か。
 秀ちゃんをお祝いしてあげたいのは山々だけど、結婚式に出席して他の親せきと顔を合わせるのが億劫だな……

 二階の部屋に戻り、ノートパソコンの電源をつける。
 机の上に置いてあった、食べかけのクッキーの袋を開け、ひとつつまんだ。コーヒーの香りが口中に広がる。ほろりとした口どけで、最近気に入っているものだ。
「ほんとに就活でもするかー……めんどいけど」
 たまっているメールをひらき、ネット通販や就活情報のメルマガを適当に流し読みしながら削除していく。その中で一件だけ、件名が目に留まった。
「ん? 何これ? 加藤星乃様へ一次審査通過のご連絡……?」
 私の名前が入っているということは迷惑メールではなさそうだ。瞼をこすりながらメールをひらく。疑問に思いながら本文を読みあげた。
「加藤星乃様。古民家再生プロジェクトにご応募いただきまして、ありがとうございました……?」

 ――建築設計事務所ノースヴィレッジアーキテクツです。
 この度は古民家再生プロジェクト「古民家リノベーションでシェアハウス」にご応募いただきましてありがとうございました。応募者様の中から弊社の選考により、加藤様は一次審査を通過されました。つきましては下記の日時に面接をとり行う次第ですので、弊社までご足労いいただきますようお願いいたします。ご都合がつかない場合はお手数ですが――

「シェアハウス……? どういうこと?」
 メールをさかのぼってみると、応募を受け付けましたという自動送信メールが届いており、確かに応募していたようだ。その受け付けメールが届いた日にちは、元カレと婚約破棄したあとすぐのものだった。
「そういえば、応募したような気がする」
 何もかもが嫌になって、適当にプレゼントの企画やモニターに応募しまくったり、宝くじを買った時期があったんだ。ろくに応募要項も見ずに申し込んでいて、そしてどれも当選メールなどはきていないから、応募したことすら忘れていたのだ。

 背筋を伸ばして一次通過の連絡メールを閉じ、シェアハウス応募ページへ飛んでみる。
 明るく開放的なサイトが現れ、その中にいくつかのリノベーションされた建物が登場した。
「おお〜、なかなかいいじゃん。あ、そうだ! このお店が気に入ったんだよね。まだ行ってないけど」
 東京の下町にできたという、喫茶店や骨董店が入った複合施設。大正時代の町屋造りをリノベーションした雰囲気のある建物だ。
 そこを建築した会社がシェアハウスに入る住人を応募していたので、それで応募してみたんだ。
 確か、いろいろな条件付きで一年間だけ、部屋を無料で貸してくれるとかなんとか。
「へぇ〜、大手不動産会社の二階堂(にかいどう)ハウスとコラボしてたんだ。だったら信用できるかな」
 もうひとつクッキーを口に入れてすぐ、むせそうになった。
「おっ、応募総数……1272件っ!? 一次通過は十人!? その中から選ばれたの!? すごいじゃん私!!」
 これはものすごいことなんだと、ここでようやく実感した私は、今さらだけど応募内容に心を持っていかれた。
「……そうだ。家、出よう」
 ぽつりと呟いた言葉が胸に広がる。
 この家を出て、環境を変えて、いちから初めたらどうだろう。私を知らない人たちと一緒に、新しい暮らしに飛び込んでみる。それはきっと私にとって、とてもいいことだ。

 従弟の結婚はお祝いするけど、この家にいたら針のムシロ体験は免れない。
 私を気遣う家族の視線から、少しの間だけでも離れたい。
 そうだ、この機会に家を出てみれば、そうすれば――

 夕方、叔母が帰ってから、キッチンにいる母に報告をしにいく。
「ねえお母さん。私、一人暮らしするかもしれない」
「えっ!?」
 大根を切っていた母の手が止まる。
「いや、一人じゃないな。シェアハウスらしいんだけど……シェアハウスってわかる?」
「わかるわよお、今流行ってるもんね。皆で一緒に住むんでしょ? でも急にシェアハウスだなんてどうしたのよ?」
 こちらを向いた母が目を丸くして言った。
「古民家再生のプロジェクトっていうのかな、そこで一年間だけ無料で住む人を募集してたの。いろいろ条件はあるみたいなんだけどね。それに応募したら一次審査に通過したんだよ。二階堂(にかいどう)ハウスが建築事務所とコラボするんだって」
「二階堂(にかいどう)ハウスって、CMでよく見るあれ?」
「そうそう、そこ」
「それならまぁ、おかしなことはなさそうね。で、どことコラボするの?」
 エプロンで手を拭いた母は、再び大根を切り始めた。
「んーとね、ナントカっていう設計事務所。そこが作る家に住めるみたい」
「ナントカって何よ」
「名前は……忘れちゃった。なんか平均年齢が若い人たちでリノベーションを主にやってるみたい」
 ふうん、とお母さんは頷いている。
「あとね、応募総数が1272件もあったの! その中から選ばれたのが十人なんだって。で、このあと面接をして、そこから数人選ぶらしいよ」
「あらまぁ、すごいじゃないの」
「でしょ?」
「運が回ってきたのねえ、きっと」
「……まぁね。って、まだ次の審査が通るかわからないんだけどね」
 母は大根を鍋に入れ、水を注いで火にかけた。
「星乃」
「ん?」
「無理しなくていいのよ?」
 冷蔵庫から豚肉を取り出した母は、いったん手を止めて、心配そうな表情を浮かべた。
 自分の娘が婚約破棄されて、そのあと就職もせず毎日ダラダラして、あげくにシェアハウスに行くなんて言ったら、心配なのは無理もないか。
「別に……まだ家にいたっていいんだから。何も、そんな急に出て行かなくたって」
「無理なんてしてないよ。いい気分転換になりそうだって思っただけ」
「それならいいけどねえ。でも、お父さんが反対するかもよ?」
「結婚決まってて出るつもりだったんだから、今さらそれはないでしょ」
「まぁ、そうか」
 母は私の顔を見つめて、小さく笑った。
「あなたがそうしたいなら、お母さんは何も反対はしないよ」
「うん、ありがと。心配はかけないようにする」
 私は一歩を踏み出すために、面接を受けることに決めた。


+


 メールがきてから一週間後。私は指定された二階堂ハウス本社へと向かった。
 まだ梅雨は明けず、曇り空が続いている。
 面接室の前に設置された椅子に座り、順番を待った。一人一人時間をたっぷりとっているのか、私の他に待っている人は見かけない。
 面接を終えた人が出てきた。私と同年代くらいの男性だ。
「加藤さん、どうぞ」
 名前を呼ばれ、室内に入る。
「失礼します」
 お辞儀をして顔を上げた私は、数人いる面接官の中の一人を見て思わず声を上げてしまった。
「あっ……!?」
「どうされました?」
 真ん中に座るスーツを着た男性が怪訝な顔をする。
「い、いえっ、何でもないです。すみません」
「どうぞお掛けください」
「……失礼、します」
 心臓がバクバク言ってる。
 私、見間違えてないよね? どうしてこんなところにいるの!?

 椅子に座って、もう一度彼らの顔をさっと見る。
 正面には、たった今、私に声をかけた体格のいいスーツ姿の男性。男性の左隣にラベンダー色のワンピースを着た女性。
 そして右隣には黒いジャケットを着て、眼鏡を掛けた男性がいる。

 やっぱり見間違いではない。
 その人は確かに……北村さんだった。