「あ、すみません、起こしちゃいましたか。うるさかったですよね」
 振り向いた北村さんが申し訳なさそうに言った。涙を見られてしまったかもしれない。
「い、いえっ、全然大丈夫、で……す」
 咄嗟に顔をそらそうとすると、こちらへ伸ばしてきた彼の手に、頭をぽんぽんとされた。
「!?」
 彼の行動に動揺する。
 ベッドでめそめそ泣いている女なんて鬱陶しいだろうと思ったのに。
「何でフッたりしたんでしょうね。こんなにカワイイのに」
「……え」
 思わぬ言葉を受けて、さらに動揺する。どうしていいかわからなくなった私は、シーツにくるまったまま、じっと固まっていた。
 北村さんの手が私の髪を優しく撫でた。その感触が温かくて、また涙が溢れてくる。
 心の中に溜まっていたものが、どんどん流れ出して、綺麗に洗われていく気がする。彼は何も言わずに私の髪を撫で続け、流れる涙を拭ってくれた。

 優しい時間だった。
 テレビから流れる音はドラマから天気予報に変わっている。今日もいいお天気らしい。

 私の涙が止まった頃、北村さんはふと気づいたように言葉を口にした。
「あ、おはようございます」
「えっ、あ、おはよう、ございます」
「眠れました?」
 笑うでもなく、彼が聞いてくる。そういえば、いつの間にかまた、敬語に戻っている。
「眠れました。あなたは?」
「俺も眠れました。久しぶりに、ぐっすり」
 改めて、明るい中で顔を見合わせた。

 北村さんの髪がはねてる。起きたばかりで、まだ寝ぼけたような表情をしていた。こういう……無防備な男の人の顔って久しぶりに見た。
 私の髪から手を離した彼は再び背を向けて、ぽつぽつと話し始めた。
「目が覚めて、ふと思ったんです。何か俺、色々わかってなかったんだなって」
「……」
「婚約破棄されてからずっと、心の中で自分を責めてました。浮気された自分が悪い。彼女の気持ちに気づかなかった自分がいけない。そんなふうにずっと思って、彼女に問い詰めることすらせずに、無理やりこの現状を受け入れてました。なんか、すがったりするのもカッコ悪いし、どうせ自分がいけないなら、もういいやって」
 胸の奥がひりひり痛む。
 あまりにも私と同じ思いをしているこの人に、親近感や同情、共感以外の、何か違うものを感じた。それが何なのかを、自分の中で上手く表現することができない。
 彼はうなだれたままの姿勢で、話を続けた。
「でも今朝目が覚めて……もしかして自分だけが悪いんじゃなくて、それはお互いさまだったんじゃないかと、そう思えたんです」
「お互いさま?」
「俺も彼女も、お互い自分のことしか見えてなかった。相手の気持ちを、よく知ろうとしなかった。俺が気づいてやれなかったように、向こうも、こうなったときの俺の気持ちは何も考えていなかったんだろう、って」
 苦笑した北村さんは、顔だけこちらを振り向いた。
「なんかふと、そう思ったんです。いや、思えたっていうのかな。今まではそんなこと思いつきもしなかったんですが、あなたと寝て、あなたの寝顔を見ていたら、なんかそう、思えた」
 微笑んだ彼の瞳に、私の心臓がきゅっとつかまれる。
 切なくて、痛い。痛いのに、昨日とは違う。ただつらいだけの痛みじゃなくて、小さな明かりを見つけてホッとしたときのような、光が混じる痛みだ。
「だから、仕事が忙しくて彼女に寂しい思いをさせていた俺が悪いのはそうなんですけど、それで離れていったなら仕方がない。彼女はそういう俺を理解できなかったし、それが悪いことではないとも思えてきた。……って、何言ってるのかよくわからないですよね」
「……ううん。何となくわかります。私もずっと、北村さんと同じように自分の何が悪かったんだろうって考えていました。この二か月間、ずっと……ずっと同じところをぐるぐる回っていたような気がするんです」
 家族にも、友人にも言えなかった言葉が、不思議なくらい自然に私の唇から零れていく。
「だから今の北村さんの言葉で、私も、軽くなった気がします。お互いさまって思っても、いいのかなって」
 彼は体ごとこちらを向き、私の瞳を見つめた。
「俺」
「はい」
「あなたのこと、ちゃんと慰められましたか。昨夜は俺ばっかり、その、気持ちよくなってたっていうか、自分本位だったでしょう?」
「全然、そんなことないです」
「本当に?」
「十分慰めてもらいました。私もすごく、その、よかったです。私のほうこそ、あなたを慰めてあげられましたか?」
「ええ。俺も、十分慰められました」
 クスッと笑い合った。
 慰め合ったのが、この人でよかったと思う。彼もそう思ってくれたなら、嬉しいんだけど。
「出ましょうか」
「ですね」
 私たちは順番にシャワーを浴び、支度を整えてホテルの部屋を出た。

 天気予報通り、空は今日も五月晴れだった。日は高く上り、あたりは初夏の眩しさに溢れている。
 ホテルから駅までの道のりを二人で歩き、駅のそばで立ち止まった。北村さんが私を見下ろしたあと、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、ございました」
「こちらこそ……ありがとうございました」
 新宿駅は人が行き交い、とても賑やかだ。ここはいつでも変わらない。私たちがどんな関係かを気にする人なんて、誰一人いない。
 妙にすっきりした気持ちで彼を見上げた。きっともう、会うこともないんだろうな。
 彼がここから何線の電車に乗るかは知らないし、もちろんどこに住んでいるのかもわからない。何をしている人なのかも、どんな人が彼の婚約者だったのか、も。
「お元気で、北村さん」
「あなたも。加藤さん」
「じゃあ」
「はい」
 挨拶をし、私が先に彼に背を向けて数歩進んだときだった。
「あの……!」
 後ろから声をかけられた。振り向く前に、北村さんが私の前に回り込んでくる。
 驚いて立ち止まると、彼は切羽詰まったような表情をして私の顔を覗き込んだ。な、何だろう。
「あなたが」
「?」
「元気になったかどうか、いつか確認できたらいいなと」
「え?」
「だからその……加藤さんの連絡先を教えてもらえませんか。SNSとかのメッセージの送り先だけでいいんで」
「……」
「俺のことも報告したい、ですし」
 目を泳がせながら、あれこれ言葉を選んでいる彼が可愛く思えて、笑いがこみ上げた。
「ふっ」
「笑うことないじゃないですか。こっちは真剣なのに」
「ごめんなさい。うん、わかりました」
 むくれた彼に向けてスマホを見せると、彼もスマホをポケットから取り出した。その場でメッセージを送れるSNSを教え合う。
「元気になったら連絡入れます。いつになるかは、わかりませんけど」
「その頃には私も、胸を張って元気になったと言えるようになりたいです」
「俺、そのときはあなたの本当の笑顔を見てみたい、です」
 ほんの少しだけ微笑んだ北村さんの表情に、胸がきゅんとした。
「わかりました」
「じゃあ、お元気で」
「あなたも」
 今度は私が、雑踏に紛れていく彼の背中を見送る。

 北村さんと過ごして、心がうんと軽くなった自分に気づく。肩に背負った重たい荷物をようやく降ろせたような、そんな気分だった。
 やっと涙を流せるようになったのは、私と同じ目に遭い、同じ気持ちを持っていた彼のことを知って、心が緩んだからだろう。そして、彼が思いのほかとても優しかったから。

 いつかまた、それこそ何年後かに彼と会うことがあったら、そのときは心から笑って、そしてもう一度お礼を言おう。

 私はあなたに救われました、と。