カルボナーラとフレンチトースト 続編

(5)ランチの相手




 田中さんが言った通り、あれから部署全体が前にも増して忙しくなった。デスクの上にあるミニカレンダーは、あっという間にもう11月。

「あ、お帰りなさい」
 私の隣に座っている岡崎くんが、後ろを振り向いた。
「ただいま」
「あれ……皆川さん、直帰じゃなかったでしたっけ?」
「ちょっと忘れ物。確認したいこともあったし。他の皆は?」
「部長は主任と食事会出てます。あとは……まだ誰か企画室に残ってると思いますけど。確実なのは田中さんですかね」
 戻ってきた彰一さんの姿を見て思い出す。この前資料室で、彼が言いかけたこと。聞きたかったけど、忙しい彼が部屋へ来ることもないし、メールも返信しないでいいからって、当たり障りの無い近況報告しか彰一さんへは送っていない。

「何してんの? 遅くまで」
 自分のデスクで上着を椅子にかけ、ネクタイを緩めながら彰一さんが私を見た。
「ちょっとミスしてしまって、岡崎くんが今まで手伝ってくれてたんです」
 岡崎くんは私よりも一つ下だけど、仕事はすごくできる。富山さんが帰ってから、彼女のミスに気付いた私を助けてくれた。
「そう。大丈夫?」
「はい。もう終わりました。お茶、淹れてきますね」
 頷く彰一さんを見て、同じ空間にいられることにホッとする。給湯室へ急ぎ、彼の好きな緑茶を淹れた。

「どうぞ」
「ありがと。置いておいてくれる?」
 一瞬私を見た彰一さんは、すぐにパソコンへ目を向け言った。
「まだこっちは終わらないから、二人とも先帰ってていいよ」
 ……やっぱり、一緒には帰れないよね。
「何かこっちで出来ることありませんか?」
「いや、今日はもうない」
 岡崎くんに答えながら、彰一さんは湯飲みへ口を付けた。
「じゃあすみません。先に帰ります。工藤さん行きましょ」
「はい。お先に……失礼します」
 本当はここに残りたい。彰一さんの仕事が何時に終わってもいいから一緒に帰りたい。だけど岡崎くんもいるし、彰一さんを困らせたくはないから、そんなこと無理なのはわかってる。
 でも、でもひとことだけ。

「あ、私忘れ物した。岡崎くん、先帰ってて?」
「……わかりました。じゃ、お先に」
 エレベーターの前に岡崎くんを置いて、今来た廊下をバタバタと小走りに自分の部署へ引き返した。
「……どうしたの?」
 息を切らして戻って来た私を見る、彰一さんの疲れた顔。コンタクトも外しちゃったんだ。私の大好きな黒縁メガネが、今日は切なく感じる。
「いえ、あの、これ」
 眠気覚ましのドリンクを鞄から出して、彼の机に置く。
「効くんです、結構。だから」
「なんかすごいね。いつもいろいろ持ってて」
 ふ、と彰一さんが笑ってくれた。しつこかったかな。
「ありとう。……ごめん、余裕なくて」
 ため息を吐いた彼が、メガネを外して目頭を押さえた。謝ることなんてないのに。余裕がないなんて当たり前のことなのに。
「……全然、そんなこと」
「早く帰った方がいいよ。遅くなると心配だからさ」
「はい」
「お疲れ様」
「お先に失礼します」
 ……頑張って。ううん、違う。無理しないで。でも、これもきっと口にしたらダメ。多分彰一さんを余計疲れさせちゃう。

 この前から何度も謝る彰一さんと、これもダメ、あれもダメって頭の中で同じ言葉を繰り返す私。何となく先の見えないもどかしさで、不安が少しずつ増してくる。



 最近その場所に彰一さんはいない。
 フロアの突き当たりにある自販機の傍。出勤して仕事を始める前に、遠くから彼の姿を探すのが癖になっていて、今朝もいないよねと思いつつ、じっとその場所を見つめてみる。
 い……いた! 久しぶりに彰一さんがいる。大きな窓の外を眺めながら、いつもと同じ様にコーヒーのカップを持って立っていた。どうしよう、声かけたい。朝の挨拶くらいならいいよね?
 息を吸い込んで緊張しながら足を速めて近付いたその時、彼の傍に女の子が駆け寄った。
 ……富山、さん? 振り向いた彰一さんは笑顔で彼女に答えてる。富山さんも楽しそうに笑った。
「あ、」
 足が、動かない。
 同じ会社で同じ部署なんだから当たり前じゃない。話くらいするよ。一生懸命自分に言い聞かせても……どうしようどうしようって、そんな言葉で頭の中が一杯になっていく。

「工藤さん、おはようございます」
 突然後ろから名まえを呼ばれて振り向くと、岡崎くんが立っていた。
「おはよう」
「俺、すっかり忘れてたんですけど」
 岡崎くんは私の顔を見てニッと笑った。
「この前のお礼してくださいよ。工藤さんのピンチ救ったんすから」
「え」
「ワンコインの昼飯でどうですか? 俺今月ヤバイんですよー」
 両手を合わせて、お願いするように言った岡崎くんは、一瞬私の後ろをチラリと見て、すぐにまた視線を戻した。なんだろ?
「うん……わかった。別にワンコインじゃなくてもいいよ」
 しょうがないよね。この前本当に助かったし。遅くまで付きあわせちゃっし。
 岡崎くんと話しながらも、彰一さんと富山さんの事が気になって仕方が無い。意識だけ完全に向こうへ行っちゃってる、私。

「やった! 絶対ですよ、工藤さん。あ、おはようございます」
「おはよう」
 この声……! 振り向くとそこには彰一さんがいた。いつの間に来たの?
「お、おはようございます」
「おはよ」
 挨拶を返した彰一さんが、私と岡崎くんの顔を交互に見た。
「岡崎さん、工藤さんとお昼行くんですか?」
 彰一さんの隣に立った富山さんが、岡崎くんの顔を見上げて言った。
「え、ああ。行くけど」
「ふうん。私は皆川さんとお昼行くんです」
 ね、と富山さんが彰一さんへ甘えたように笑いかけると、彼も小さく何度か頷いた。
 え……嘘。二人のやり取りを見た途端、頭がかっとして心臓が大きく鳴り始める。
「あ、そう。だから? 何張り合ってんの?」
「別に張り合ってなんかないです。岡崎さん、変な勘違いしないで下さい」
 岡崎くんと富山さんが何か言い合ってるけど、全然耳に入って来ない。

 いやだ。やだよ、なんか。どうして? 私だってずっと一緒に行けなかったのに。彰一さん忙しいんじゃないの? なのにどうして富山さんとはランチに行けるの?
 仕事仲間なんだから、彰一さんが誰とご飯食べに行ったって、そんなの文句は言えない。私だってこうして岡崎くんと一緒に行くんだし。でも、でも富山さんは彰一さんのこと……。
 こんな小さなことで馬鹿みたいに不安になって、いやな考えが後から後から押し寄せてくる。

 その後も仕事が手につかなくて、普段絶対にしないミスを連発してしまった。頭が痛い。こんなことで私、本当に子どもだな。

 いつもは美味しい定食やさんのごはんも、全然喉を通らない。今頃、二人は何話してるんだろう。
「なんなんすかね。富山って」
 岡崎くんがイライラした口調で言った。
「先週のミスだって俺らがカバーしたのに。ちゃんと言ったんですか? 工藤さん、あいつに」
「言ったよ? 富山さん、きちんと謝ってたし……岡崎くんの所にも来たでしょ?」
「まあ、来ましたけど! でも何か……気に食わないんですよね」
 どんぶりのご飯を口へかっこんでから、岡崎くんが言った。
「大体、皆川さんも断ればいいんですよ、今忙しいんだから。富山と一緒に飯食いに行ってる暇なんか無いはずなのに」
 目の前の壁にかかっているカレンダーをぼんやり見つめる。
 今日は金曜日。来週の祝日、今年は三連休じゃないんだ。全然気付かなかった。
「皆川さんがああいうの好きだっていうなら……しょうがないですけど」
 きっと彰一さんも、忘れてる。

 その夜、部屋に帰った途端ベッドへ倒れこんだ私は、高熱を出していた。



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