カルボナーラとフレンチトースト    番外編

(4) 取れない魚の骨




 もう十月も下旬に差し掛かかり、すっかり秋の気配に包まれている。
 皆川さんと映画に出かけてから、一ヶ月。この間に何度か一緒にランチをして、土日も二回ほど会って楽しく過ごした。ここまで来たら大丈夫だよね? 彼女いますか? なんて、もう今更聞けない雰囲気だし……。

「工藤さん、これ総務に行ってハンコもらってきて」
「はい」
 先輩に言われ書類を受け取り、自分のデスクを離れる。
 エレベーターの前で立っていると、横から声を掛けられた。津田さんだ。
「優菜ちゃん、今度はさ、二人で飲みにいこうよ。ね?」
 また始まった。ほんと、これがなければいい人なんだけどな。仕事も出来るみたいだし。
「でもあの、二人で行くのは彼女さんに悪いし」
「え」
「この前の飲み会の先輩方、皆さんモテそうだから……。津田さんとか田中さんもそうだし、み、皆川さんとかも」
 津田さんの話から逃げようとしたのに、思わず彼のこと言ってしまった。
「え、ああ彰一? そういえばいたな、彼女」
「え……」
「確か、」
 津田さんが話している最中にエレベーターが開き、台車にダンボールを積んだ社員の人が降りてきた。ガラガラと通り過ぎる大きな音のせいで、津田さんの声がよく聞こえない。
「あ、新田! お前金曜のあれ、経理に通した?」
「……何でしたっけ?」
 新田さんと呼ばれた男の人は、チラリと津田さんを横目で見ただけで台車を押しながらさっさと歩いて行く。
「ちょっと待てって」
「津田さん自分で言って下さいよ。俺、もう何回も行かされてるから無理っす」
「優菜ちゃんごめん、またね。おい、新田って!」
 大きな声で新田さんを追いかけて、津田さんはそのまま行ってしまった。

「上? 下?」
 声を掛けられて振り向くと、秋子のお気に入りの田中さんがいた。私、さっき来たエレベーター乗らなかったんだっけ。ほんの少し前のことなのに、すごく長い時間ここにいたみたいに感じる。
「あ、上でお願いします」
「どこ? 総務?」
「……はい。田中さんは?」
「経理だから、俺も上」
「……」
「津田って声でかいよね」
「……そうですね」
「あいつ、飲み会の時もうるさかったんじゃない? 隣で」
「……」
 田中さんの声が遠くに聞こえる。先輩の前で失礼なのに、笑顔になれない。仕事中なんだから、私の勝手な落ち込みでこんなのは駄目。社会人として失格だよ。
「そ、そんなこと無かったですよ」
 無理やり笑ったから変に見えたのかもしれない。田中さんは眉をしかめ怪訝な顔で私を見る。エレベーターが来て二人で乗り込むと、田中さんが4階のボタンを押した後、振り向いた。

「腹でも痛いの?」
「え?」
「いや、そんな顔してるから」
「ち、違う違う、って違います。大丈夫です、お腹は何とも無いです」
「んじゃ、熱かな? 具合悪そう」
 急に田中さんはかがんで、私のおでこに手を当てた。うわ、ちょっと
……! って言っても多分変な気は無いんだろうな。田中さんは誰に対してもこういう人だし。
「別に熱は無さそうだね」
 田中さんが呟いた時、3階でエレベーターが開き、目を向けるとそこには皆川さんがいた。乗り込んで来た彼の姿に胸がズキンと痛む。
「……田中さん、何してんですか。エレベーターで」
「工藤さん具合が悪そうなんだよ。熱っぽく見えたから」
「え、そうなの?」
 皆川さんが驚いた顔で私を見る。
「い、いえ。全然そんなことないんです。大丈夫ですから」
 目が合わせられない。今彼の顔を見たら、会社なのに、田中さんもいるのに……泣き出してしまいそう。
「皆川どこ?」
「総務です。主任のところ。田中さんは?」
「経理。行きたくねーんだけどさ、面倒ごと」
 二人が話している間も、その中には入れなかった。4階に着き三人でエレベーターを下りると、田中さんは経理に行ってしまった。

 皆川さんと二人で総務に向かう。仕事中なんだから、と自分に言い聞かせても、どうしても彼の顔が見れない。
「平気?」
「はい。本当に何でもないんです」
「……」
「あの、お先にどうぞ」
「なんで。一緒でしょ? 総務に行くんだから」
「……」
 ちょっとだけ、皆川さんの声が不機嫌に聞こえた。そうだよね、目も合わせようとしないで、こんなこと言ってるんだから、失礼と思われてもしょうがないよ。
「工藤さん」
「はい」
 会社だから当たり前だけど、苗字を呼ぶその響きが寂しい。
「今日、昼一緒しよう」
「え……」
「無理?」
「大丈夫、です」
「じゃあ、俺主任のとこだから。あとでね」
 先に歩き出した彼の背中を見つめる。……今は何も考えられないし、何の言葉も浮かばない。どんな顔してお昼一緒にすればいいの?


「それ嫌い?」
「え?」
 手元を見ると、ずっとお魚をほぐし続けていたみたいで、うんと細かくなって煮汁と混ざり合っている。一緒にランチに来たものの、頭の中はさっきの津田さんの言葉で一杯で、ずっと上の空だった。
「いえ、大好きです。え、と、こうやってからご飯に乗っけると、美味しいんですよ」
 ……苦しかったかな、今の言い訳。
「ふーん。じゃあ、ちょっとちょうだい?」
 彼が自分のお箸を向けた。
「どうぞ」
 私のほぐしたお魚をご飯に乗せて口に入れた彼が、私を見た。
「ほんとだ、美味しい」
 にっこり笑った彼に、涙が出そうになる。こんなに優しくて素敵なら、彼女がいるの当たり前だよ。いない方がおかしい。なのにどうして気付かなかったんだろう。ううん、何となくわかってたのに、それでもずるずるといつまでも確かめなかった私がいけないんだ。

「日曜日、また出かけようか」
「……」
 嬉しい筈の言葉が、今は胸に重たい。勝手に好きになっちゃったのに、つらくてしょうがない。
「まだ、具合悪い?」
「いえ、何ともないです。……行きます」
「……メール、するよ」
 彼の声のトーンが落ちた。私の表情、また変だったのかもしれない。


 骨は綺麗に取られているお魚なのに、飲み込むたびに喉に何かが引っかかって、胸の奥までチクチクといつまでも痛んでいた。



-Powered by HTML DWARF-