ななおさん

番外編 お弁当


「よっこいしょ、っと。あ」
 目が覚めて一番に、お布団から起き上がる際、発する言葉。
「また言ってしまった……」
 まだそれほどお腹は大きくないのに、ついつい言ってしまう。気を付けなければ。

 春の中ごろ、少し雲がかかる朝。
 私と壮介さんの赤ちゃんは安定期に入り、さらに少し経過したところ。今のところ順調で何の問題もなく、私の状態も安定していた。
「あ、元気元気。おはよう」
 動いた赤ちゃんに挨拶する。最初はお腹の中を、みみずが這ってるみたいな感じしかしなかった胎動も、最近では、はっきりとわかるようになってきた。私が起きると一緒に動いたりして……可愛い。
 幸せな感触にお腹をさすりながら隣を見ると、壮介さんがいない。
「あれ? 壮介さん?」
 今日はお休みで、ゴルフの予定もないはず。起き上がって押し入れを開け、綺麗に畳まれた壮介さんのお布団を確認する。……もしや。
 
 和室を出て、ゆっくりゆっくり階段を下りていく。柔らかな光に満たされたリビングに下り立つと、トントンという小さな音がキッチンから聴こえてきた。そちらへ静かに歩いていき、せわしなく動いている彼の背中に向かって声を掛ける。
「壮介さん」
「あ、おはよう、七緒さん。もっと寝てていいのに」
 振り向いた私の旦那様が、優しく笑った。
「おはよう、あの」
 すぐにまた背を向けた壮介さんは、まな板の上に置いた胡瓜を包丁で切り始めた。
「七緒さん階段気を付けてよー。そろそろ一階の和室で寝ようか。そうだ今夜からそうしよう、うん」
「壮介さん」
「んー?」
「また朝ごはん作ってくれてたの?」
「まーねー」
 壮介さんの隣に立って問いかけると、彼は得意げな顔で答えた。
「ありがとう」
「味は保証しないよ。でも頑張ったから褒めて」
「うん……わかった」
 子どもみたいな彼の言葉に思わず吹き出した。最近はもう開き直っているのか、照れるでもなく当然という顔をしているから、余計に笑っちゃう。
「また七緒さんてば、すぐ笑うんだから」
「ごめんね。頑張ってくれてありがとう。壮介さん大好き」
 背伸びをして彼の頬に唇を押し付ける。手を止めて眼鏡を外した壮介さんが、私をそっと抱き締めた。
「僕も七緒さん大好きだよ」
「うん」
「お返し」
 唇に、ちゅっと軽く返され、微笑み合う。
 もう少し深くキスして欲しかったな、なんて。つわり中に気遣ってくれるようになってからというもの、そういうことがほとんどなくなってしまって、少し寂しい。そのせいなのか、最近は些細なことで不安を感じてしまう自分がいた。

 それにしても、料理は何もできないと断言していたあの壮介さんが、お休みの日は自ら早起きして、私の為に朝ごはんを作ってくれているとは。これが三回も続いているのだから本当に感心してしまう。私と赤ちゃんの為に、こんなことまで頑張ってくれていて……壮介さんと結婚して本当に良かったって、しみじみ思う。
 ふとダイニングテーブルに目をやると、そこにはラップに包まれたおにぎりと数品のおかずが、お皿にのっていた。
「ねえ壮介さん。これも朝ごはんなの?」
「いや、もし七緒さんが体調良ければ、あとで散歩にでも行こうかと思って」
「え」
「前に、こうやっておにぎり作ってくれたじゃない。あのときみたいにさ、どう?」
「うん、行きたいです」
「体調は?」
「ばっちり! すごく調子いいの。この子も」
 お腹に手を当てると、嬉しそうに……本当に嬉しそうに壮介さんが笑った。
「そうか、それはよかった。じゃあ、のんびり行こうね」
 よしよしと、私のお腹を優しく撫でてくれる。応えるように赤ちゃんも動いたけれど、まだ壮介さんの手のひらまでは伝わらないみたい。

 壮介さんの作ってくれた軽い朝ごはんを食べ、片付けと洗濯物を終えて、一休みしてからお散歩へ出た。
 家の傍にある大きな公園では、青々とした葉桜の並木が続いている。いつの間にか雲は消え、青い空が広がっていた。
「気持ちがいい〜」
「よく晴れたな〜。七緒さん、疲れない?」
「全然! ここのところ雨続きだったから、こうしてお散歩できるのが嬉しい」
 繋いだ手をぎゅっと握って壮介さんの横顔を見つめると、彼もそれに応えて強く握り返してくれた。
 大きな池の上を鳥がすいすい飛んでいき、花壇には色とりどりの花がたくさん咲いていた。桜の樹以外の木々の緑も豊かで目に眩しい。春の匂いを胸いっぱいに吸い込み、壮介さんと公園の道をゆっくり進んでいく。園内に設置されている時計は、もうすぐ一時になろうとしていた。
 池の周りを一周して、用意していたひざ掛けをベンチに敷き、その上に座った。
 意外と距離はあったようで、額に薄っすらと汗を掻いてしまった。ミニタオルをバッグから取り出し、汗を押さえる。
 私のマタニティワンピの膝の上に、壮介さんがハンカチを敷いてラップに包まれたおにぎりを載せた。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます!」
 大きなおにぎりが二つ。具はこんぶと、梅干しだと教えてくれた。おかずはゆで卵と、アスパラを巻いたベーコンが、タッパーの中に綺麗に詰められていた。
 大きな口を開けて、おにぎりを頬張る。
「あ、美味しい!」
「良かったー。おにぎりって三角に握るの大変なんだね。丸にしかできなかったよ」
「でも、綺麗な丸に出来てる。壮介さん、最近すごいのね。朝ごはんのサンドイッチも、びっくりするくらい上達してたし」
 おにぎりの塩気がちょうどよくて、本当に美味しい。彼がおにぎりを握っている姿を想像すると、胸に何とも言えない温かなものがこみ上げた。
「最初のはひどかったよね、僕のサンドイッチ」
「不格好だったけど、すごく嬉しかった。壮介さんが一生懸命作ってくれたと思うと何だか嬉しくて……食べながら泣いちゃったの」
 ひどい生理痛で寝ていた私に、仕事へ出かける前、時間をかけて作ってくれたサンドイッチ。料理をしない壮介さんが私の為にしてくれたことが嬉しくて、彼を大好きだと再確認させられた出来事だった。
「もしかして僕の知らないところで、いっぱい泣いてた?」
「少しだけ」
 膝の上に置いた私の手を、彼が強く握る。
「もう絶対泣かせるようなことはしないよ。この先ずっと」
「……うん」
 こうして私を大事にしてくれるんだもの。今夜思い切って、心の内を告白してみよう。

 今朝宣言していたように、壮介さんは一回の和室へ布団を下ろしてくれた。しっかり干したお布団に洗い立てのシーツを被せる。
 夕飯後、お風呂上がりの私たちは並べたお布団に寝転がった。早起きしてくれたからだろう。壮介さんは本を読みつつ、何回も欠伸をしていた。
 彼の横顔やパジャマを着た肩先、ページをめくる指先が、今夜はやけに恋しく感じる。と同時に、また小さな不安が胸に広がった。彼に触れて欲しくなった私は、思わず声を掛けていた。
「あのね、壮介さん」
「うん?」
「奥さんが妊娠中って、その……浮気したくなるの?」
「え!」
「そういう旦那さんが多いって」
 驚いた声を上げた壮介さんが、顔だけ勢いよく振り返った。
 ネットで色々調べているうちに見たくない情報までもがどうしても入ってしまい、くだらないことだとわかっていても気になっていた。私の為に我慢してくれているのだろうけれど、あまりに求められ無さ過ぎても心配になる。
「誰にそういうこと吹き込まれたんだよ〜。友達? ネット? 誰か経験者の知り合いでもいるの?」
「ネットとか雑誌、です」
「ふーん。で、誰が浮気するって?」
「だ、旦那さんが」
「七緒さんの旦那は僕でしょ。僕が浮気してるとでも言いたいの?」
 壮介さんは体をずいっとこちらへ近づけて、私の顔を覗き込んだ。
「私の体を気遣ってくれて、すごく嬉しいけど、ずっと……してないでしょ? だからもしかして、って少し心配だったの」
「信用無いなー僕」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
 大きくため息を吐いた壮介さんは、同時に読んでいた本を閉じた。
「大体ね、奥さんが妊娠中に浮気する男っていうのは」
「うん」
「金と時間があって、さらに面倒くさがりじゃないマメな奴なんだよ。要はヒマなの、ヒマ! こっちは忙しすぎて休みもなかなか取れないっていうのに」
 イライラとした口調で、仰向けの壮介さんは天井を見た。
「僕は七緒さん以外にはマメじゃないしね」
「そうなの?」
「そうだよ。大体すぐ傍に愛する妻がいるのに、何で他に目がいくのかわからないね、僕は」
「!」
「七緒さん、顔まっか。……こっちおいで」
 壮介さんが自分の掛け布団を持ち上げた。横になっていたお布団から出た私は、彼のお布団に潜り込む。
 腕枕をしてくれた壮介さんが私を優しく抱き締めた。彼の匂いと温もりに胸がきゅんとすぼまる。
「私、壮介さんに全然体を求められないのが寂しくなっちゃったの。ごめんなさい、我儘言って」
「七緒さんが大変なときに、僕の欲求ばかり押し付けるのは大人じゃないでしょ」
「うん。でも何だか、ちょっとしたことで不安になっちゃって」
「体の変化に心がついていってないんじゃない? 妊婦さんってナーバスになるんでしょ、色々と」
「そう、かも」
 つわりは終わって体の調子が良くなったとはいえ、その後は涙もろくなったり、急に心配事が増えたりしたのも、もしかしたら壮介さんの言う通りかもしれない。彼の匂いが恋しくなったのも。
「あとね、つわりが終わったら何だか、壮介さんにすごく触って欲しくて……そういう妊婦さんもいるみたい」
「触るだけでいいの?」
「……意地悪」
 クスッと笑った壮介さんが、大きな手で私の髪を優しく撫でてくれた。
「七緒さんの体調が大丈夫なら、もちろん僕はしたいよ。でも我慢だってできる。それが愛でしょ、愛」
「壮介さんってば」
 言い方がおかしくて笑ってしまった。些細なことでも、やっぱりちゃんと話さなくては駄目だよね。言ってよかった。ホッとしたそのとき、彼の指が私の顎を持ち上げた。
「僕のこと愛してる?」
「え」
「言ってよ、七緒さん」
 急に真剣な声で言う壮介さんの瞳に釘付けになりながら、唇を動かす。
「あ、愛して、ます」
「僕も、七緒さん愛してるよ……!」
「んっ!!」
 返事をしてすぐに唇を塞がれた。
 柔らかくて生温かな壮介さんの舌に、口の中全部を舐められる。久しぶりの強引さに心臓が高鳴り、私の全てが喜んでいた。
 温かい手にあちこちまさぐられ、どんどん足の間が濡れていくのがわかる。お腹は張らないし、どこも具合が悪くない。大丈夫。
 ただ触られているだけで気持ちがよくて、合わせた唇の間から声を漏らしていた。
「ん、ふっ、んん」
 壮介さんの息も荒くなっている。体も心も昂ってきたそのとき、彼が手を止めて起き上がった。
「ちょっと待っててね、七緒さん」
「は、い」

 寂しがる体を自分でそっと抱き締めて、部屋から出た彼を待った。
 春の夜の匂いは、外にいても部屋にいても、どこか艶めかしさを感じさせる。私も起き上がり、部屋の灯りを床に置いた間接照明だけにした。ついでにパジャマを脱いでお布団の中に入ると、壮介さんが戻ってきた。
「しっかり手、洗ってきた。これも付けないとだよね」
「ありがとう、壮介さん」
 手に載せた避妊具を私に見せた彼はパジャマと下着を脱ぎ、お布団に入った。
「あ……七緒さん、そんなに待ちきれなかったの?」
 私の裸を見て一瞬驚いた壮介さんは、にっと笑って手を伸ばしてくる。
「待ちきれなかったのもあるけど……。体が変わったのが恥ずかしくて、自分で脱いじゃった」
「恥ずかしいことなんてないよ。綺麗だよ、七緒さんの体」
「あ、あ……っ」
 首筋から肩、そして胸の辺りを指先で、つうっと撫でられ、体がびくんと揺れる。
「七緒さん、またおっきくなったんじゃない? 前からすごかったけど、これもいいなぁ」
 私の胸をそっと触った壮介さんが嬉しそうな声を出した。確かに最近、お腹に負けじと胸も大きくなっているんだよね。
「おおー、すごい重量感だー」
 両方の手のひらに乗っけるようにして、私の胸を弄ぶ。……大きな子どもみたい。
「もう、や、ん!」
 体をひねって抵抗すると、すぐに手を離してくれた。
「あんまり刺激したらいけないんだよね。吸わないように気を付けないと駄目だな」
「う、うん。……あ」
 目立ってきたお腹を優しく、愛おしげに撫でた壮介さんは、その手をさらに下へと進ませた。
「本当はここも全部舐めちゃいたいけど」
「あっ! あ、う」
 すっかり蕩けた私のそこへ、彼が指を滑らせた。久しぶりのせいか、すごく敏感になっている蜜の入り口は、彼の指で信じられないくらいに気持ち良くなっていく。
「あ、あ、ああ」
 撫でられているだけなのに、勝手に声が出てしまう。
「気持ちいい? 七緒さん」
「う、ん……いい、壮介、さん」
 くちゅくちゅと水音が響いている。お腹の子に聞こえていたらと思うと恥ずかしいのに、彼の指がもっと欲しくて腰が浮いてしまう。
「僕調べたんだけどさ、妊娠中ってイッちゃっても大丈夫なんだよね? どうする? イキたい?」
 耳元で囁かれた途端、大きな快感がせり上がってきた。
「う、っん、だいじょう、ぶ」
「イキたいの?」
「あっ、いきた、い、お願い……っ!」
 壮介さんの腕を掴んで懇願する。と、彼は私の愛液がたっぷり付いた指の腹を、敏感な粒に塗りこみ、小刻みに刺激し始めた。
「あっ、あっ」
 頭がぼうっとして、もっともっとその指を欲しくて、涙を滲ませながら彼の瞳を見つめると、応えるように私の唇へ深いキスを落とした。
「んっ、んうう! んーーっ!!」
 舌を絡ませ、唇の端から露を零しながら、あっという間に達してしまった。体中が……頭の天辺から爪先まで全てが悦びに震えている。
「あ……あ」
 ゆっくりと息を吐いて、意識をお腹に集中させた。張ってもいないし、どこも痛くない。
「ゆっくりしようね。何かあったらすぐ言って。途中でも何でも止めるから、大丈夫だよ」
 快感を味わう私の横で、壮介さんが準備を終えた。
「……ありがとう。来て」
 両手を伸ばして彼を迎える。壮介さんはお布団の上に手をついて、私に直接乗らないよう気を付けながら、蜜の滴る内へ静かに挿入ってきた。
「あ、あ」
 浅目に挿れたところで動きを止めた壮介さんが、項垂れて大きく深呼吸する。苦しそう……?
「……七緒さん、僕」
「どうし、たの?」
「久しぶりだから、良過ぎて、あ」
「いいの?」
「すごく、いいよ」
 私の内で浅く出し入れする壮介さんは、熱い息を私の耳へ落とした。
 私を壊さないように、お腹の子を守るように、激しさなんて一切なく、自分を抑えながら喘ぐ彼を見て愛おしさが胸に溢れる。
「私、壮介さんと結婚して、よかった……」
「七緒さん」
「世界一、幸せなの」
 いつもいつも心からそう思っているって、伝えたかった。
「やめてよ七緒、さん」
「どうして……?」
「そういうこと言われたら、すぐ出ちゃうって……!」
「ん! んんっ!!」
 私の唇を塞いだ壮介さんは、息もできないほどのキスをしたあと、私の瞳を見つめて囁きかける。
「僕も……幸せだよ、世界一」
「壮介さん……!」
 愛の言葉を降らせて久しぶりに繋いだ体は、あっという間に快楽の果てへと昇り詰め、互いの全てを満たし合った。
 
 心地よい疲れに浸り、お布団の中で体を寄せ合う。一階の部屋で二人で寝るのは初めてで、別の場所へ来たかのように新鮮だった。
「今度の木曜日健診だよね。僕も一緒に行くよ」
 壮介さんは私に負担のかからないような姿勢で、抱き締めてくれていた。
「男の子か女の子か、先生に聞いてみる?」
「そろそろわかるんだっけ」
「うん」
 壮介さんが私のお腹を、ゆったりとさすった。
「どうしようか、まだ迷ってる。あとのお楽しみでもいいような、先に知りたいような」
「私も。もう少し知らない時間があってもいいかな」
「七緒さんはどっちが欲しいの?」
「元気に生まれて来てくれれば、どっちでもいい」
「僕も同じ」
 微笑み合うと、壮介さんが私の体をそっと抱き起した。
「冷やさないようにパジャマ着ちゃおう」
 お布団の横に脱いだ下着とパジャマを、壮介さんが着せてくれた。お返しにと、私も彼の下着とパジャマを拾う。
「私も着せてあげる」
「僕はいいよ」
「私もしたいの。させて?」
「何だか照れるな」
 笑った壮介さんに、私がしてもらったように着させてあげる。お布団の上に座った彼の、パジャマの背中に抱き付いて顔を押し付けた。あったかい。壮介さんの、いい匂い。心臓の、音。
「どうしたの? 七緒さん」
「うん。幸せだなって、思って」
 壮介さんのお腹のほうに回した両手の上から、彼の両手を重ねられた。
「三人で幸せになろうね」
「はい」

 早く会いたいなぁ、という壮介さんの呟きに頷きながら、こちらを向いた彼の腕の中でたくさんの幸せを噛み締めた。



次話はこの数か月後のお話です。