ななおさん

7 お見合い



 この二日と半日の間、溜息しか出てこない。
 リビングのソファに寝転がり、日曜お昼の番組を見ている。内容なんて頭に入らない。
 ……あの人、今頃どうしているだろう。何をするにも、いちいち彼のことばかり思い出してしまって、食事もろくに喉を通らなかった。

「七緒。そんなにのんびりしてて間に合うの? もう一時になるわよ」
 洗濯ものを取り込んだ母が私に言った。
「白金のシェラトンに三時半でしょ? 余裕」
「着物は着ないわけ?」
「……着ないよ」
 着物、なんていう響きだけで胸が痛くなった。
 木曜日にまた有給を取って鎌倉に行けば、もう一度会えるだろうか。
 鎌倉にいつもいるわけじゃないだろうし、万が一会えたとしても、何も言わずに立ち去った私のことなんて、もう二度と気に留めてもらえないかもしれない。彼に飛び込む勇気も無かったくせに、いざこうなると諦めの悪い自分がいて本当に嫌になる。
 あの日私は一人ホテルを出たあと、七里ヶ浜の駅で江ノ電を待ち、早朝の電車を乗り継いで家に帰った。自室に戻った私は倒れ込むようにベッドへ横になり、いつまでも泣いていた。

「お母さん」
「ん?」
「お見合い相手の人、名前なんだっけ?」
「知りたくないんじゃないの?」
「それくらいは聞いておこうかと思って」
「ちょっと待ってなさいよ」
 スリッパの音をさせて部屋に行った母は、急ぎ足でリビングに戻り、私に名刺を差し出した。
 古田、壮介。
 名前の下にローマ字読みでSousuke Furutaと書かれている。
「……そうすけ」
 口にしただけで泣きそうだった。よりによって、下の名前が彼と同じだなんて。
 あの人のそうすけ、という漢字はどんな文字だったんだろう。名字も聞いておけば良かった。後悔しても仕方のないことを、ここのところずっと堂々巡りのように考え続けている。
「七緒、仲人さんのお名前は憶えてるわよね?」
「堀越(ほりこし)さんでしょ? 携帯の番号も貰ったし、そこは大丈夫」
「お母さんと撮った写メがあるから見せてあげる」
 母は私の傍に来て携帯の画面を見せた。母と二人、ピースしながら笑ってる。優しそうな人で安心した。
「待ち合わせのカフェ、堀越さんのお名前で予約が入ってるからね」
「わかってる」
「あそこ、綺麗な日本庭園があるのよねえ。今頃紅葉が赤くなってるんじゃない?」
 ほう、と母がどこか空を見つめて溜息を吐いた。私は黙ってテレビのチャンネルを変えていたけれど、全然定まらない。
「七緒、堀越さんは気さくないい方だから大丈夫よ。もしも無理なら、あとで断ればいいんだし。ね?」
「……うん」
 重たい気持ちが伝わったのか、珍しく母が心配そうな顔で私を見つめていた。

 支度を終えて部屋を出ると、ちょうど廊下にいた母に不機嫌な声で呼び止められた。
「ちょっと七緒」
「何よ、もう出掛けるんだけど」
「あんた、そんな地味なワンピースで……。それに何で眼鏡なのよ。使い捨てのコンタクトあるんじゃなかった? メイクもすっぴんみたいじゃないの。着物の時は全然違うのに」
 不機嫌な声は呆れたものへと変わっている。私は白い襟の付いた膝下丈の紺色ワンピースを着て、髪をひとつに結わき、茶のタイツを穿いていた。母を振り向き、睨み付ける。
「コンタクトもメイクも着物の時だけで充分なの。あれは私の大事な趣味なんだから口出さないでよ」
「だってそんなに地味じゃ、せっかく気に入ってもらえたのに本人見てやめます、ってパターンにならない?」
「それならそれでいいじゃない。結婚するなら素を知っててもらわないと」
「それはそうだけど……」
 下駄箱から出したベージュのヒールを履いた。
「行ってくるね」
「頑張ってね。終わったら連絡ちょうだいよ?」
「はいはい」

 横浜駅から東横線の特急に乗った。小高い丘の多い横浜周辺を抜けると、密集した住宅街が車窓に現れる。
 武蔵小杉駅で東京メトロに直通する目黒線へと乗り換え、窓の外の乱立した高層マンション群に驚いていると、すぐに多摩川が現れた。
 あの人、都内に住んでいると言っていたっけ。川を越えれば世田谷区。二十三区あるうちのどこかはわからないけれど、彼に少しでも近づいたと思うだけで胸が震えた。
 白金台の駅で降り、地上へ出てホテルへ向かう。ビルが立ち並ぶ大きな道路沿いの緩やかな坂道を歩いた。
 五分ほどでホテルに到着した。落ち着いた雰囲気のロビーはとても広く、天井も高く、眩暈がしそうだった。指定されたカフェへ急ぐ。足元の絨毯が靴音を吸い込み、重かった足取りが余計に沈んだように感じた。
「いらっしゃいませ」
 カフェの入口で待機していたスタッフに問いかける。
「堀越さん、のお名前で予約が入っていると思うのですが」
「堀越様ですね。お連れ様は、お先にいらしています。どうぞこちらへ」
 もう来てたんだ。きゅーっと胃が痛くなる。こんなことを思ってしまうのは相手の方に本当に申し訳がないのだけれど、どんな人かを想像することさえ、今の私には億劫だった。
 カフェ内をスタッフについて歩いて行く。明るい窓際のテーブルに男女二人が並んで座り、こちらに背を向けていた。
「お連れ様がお越しになりました」
 スタッフがそのテーブルに声を掛けた。振り向いた年配の女性が椅子から立ち上がる。
「安永さんね?」
「はい。遅れてすみません。安永七緒です」
 母の写メに映っていたその人は穏やかな笑顔を見せた。
「堀越と申します。今日は遠い所をよくいらっしゃいました。よろしくお願いしますね」
 彼女の隣にいた男性も立ち上がったのがわかるけれど、まだそちらは見ない。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 堀越さんが隣の男性にてのひらを向けた。
「安永さん、こちらが……」
「初めまして。古田壮介です」
 ……え? 聴いたことのある声に驚いて顔を上げると、男性と目が合った。
「あ、安永七緒、です。初めまして」
 嘘。あの人に、似てる。
 スーツを着てメガネを掛けているから、雰囲気は全く違うけれど……声と顔がとても良く似てる。でもまさかそんなこと有り得ない、よね。
 堀越さんに促され、席に着いて飲み物を頼んだ。
「古田さんはね、和菓子店『みもと屋』の息子さん。経営と営業をされています。趣味は映画観賞。年齢は三十一歳でいらっしゃいます」
 ……三十一歳。私より年上には見えない。あの人も、年上には見えなかった。
「安永さんは事務のお仕事をしていらして、ご趣味は読書とお料理とお菓子作りなんですって。年齢は二十九歳」
 冷や汗を掻きながら、堀越さんの言葉に作り笑いする。お母さんてば勝手に嘘を吐くなんて信じられない。料理なんて年に一回くらいしか作らないし、ましてやお菓子なんて。これじゃあ詐欺でしょうに。
「古田さん、どう? 素敵な方でしょう?」
「ええ。とても女性らしくて素敵です」
 彼が声を発する度にどぎまぎしてしまい、その顔をまともに見ることができなかった。やっぱりとても似ている。もしも、もしも彼だったら、私はどうしたら……
「それじゃあ安永さん、行きましょうか」
「え?」
 気が散っていたためか、話をよく聞いていなかった。堀越さんがにっこりと私に笑いかける。
「ここは日本庭園が素晴らしいの。紅葉を見られるかもしれないから、二人で散策に行かれたらどうかと思って」
「え、ええ。そうですね」

 カフェの出口で堀越さんと別れることになった。
「では私はこれで。お二人とも、ごゆっくりね」
「お世話になりました。あとで連絡しますので」
「お母様によろしくね、古田さん」
 古田さんと挨拶を終えた堀越さんが私の顔を見る。
「堀越さん、ありがとうございました」
「安永さんも、お母様によろしくね。あとでメールするからって伝えてね」
「わかりました」
 何度も私たちにお辞儀をして、堀越さんはそこを去った。
「僕たちも行きましょうか」
「……はい」
 またその声に反応してしまう。それに加えて、この……隣に立った感じと背格好、よく見れば髪形までもがそっくりだった。
 ――本当にこれが、あの時の彼だとしたら。
 どうして私に気付かないのだろう。着物を着ていないから? 髪のまとめ方も違うし、今日はメガネを掛けているし、メイクも薄いから……?

 ホテルの敷地内にある庭園はとても広く立派なものだった。何本も伸びる大きな樹が高い所でざわめき、その度に枯れ葉が降ってくる。赤く染まりつつある紅葉を仰いだ彼が呟いた。
「綺麗ですね」
「……ええ。本当に」
 その後、黙ったまま静かな庭をしばらく歩いていると、彼が立ち止まった。
「読書に料理にお菓子作りと、おっしゃいましたが」
 こちらを振り向いた彼が近付き、かがんで、にっと笑った。心臓がどきんと音を立てる。この表情……!
「本当の趣味は違うでしょ?」
「え?」
「僕も映画観賞なんて、趣味じゃありませんよ。最近は和服を着ることが一番楽しくて、ね」
 彼はジャケットの内側のポケットを探り、何かを私の前に差し出した。それは蝶の形の帯留めにしていたブローチ。
「!!」
「ベッドの横に転がっていました。僕が引っ張った紐から、外れたらしい」
「あ。あの……」
 やっぱりそうすけさんだった。壮介、という字を頭の中で当て嵌めていると、彼が眼鏡を外して苦笑した。
「眠っている僕を置いてそのまま行ってしまうなんて、ずい分酷い扱いをするんですね」
 紅葉の葉が一枚、私と彼の間に舞い落ちる。時間を掛けてひらひらと。
「あの時点で僕は、フラれたわけだ」
 差し伸べられた手に腕を掴まれた。その強い力に体が固まってしまう。

「そうなんでしょ? 七緒さん」