ななおさん

4 鎌倉物語 (2)



 大仏様の大わらじの傍にあるベンチに二人で座った。
 彼の黒い足袋を履いた雪駄を見る。身近に着物を着た男の人なんていないから、つい目がいってしまう。
「意外と着物姿の人は少ないんですね。もっと多いのかと思っていたんですが」
 視線に気付かれたのか、目の前にいる大仏様を見ながら彼が言った。
「私、七月の初めに着物でここに来たんです」
「七月の初め、ですか?」
 こちらを向いた彼に頷く。
「ええ。その時は着物の方と何人かすれ違いました。猛暑日だったんですが、季節にもよるんでしょうか」
 私は悲惨な目に遭ったけれど、着物に着慣れたふうの人は皆、涼しげな顔をして、さっさと歩いていたのを覚えている。
「そうかもしれませんね。でも僕は猛暑日より、今の時期の方が絶対にいいな」
「私もです」
 外国人のツアー客や遠足の学生が次々に訪れ、途端に騒がしくなった。
「今日は仕事が休みなんですが、あなたも?」
「はい。といっても有給なんです。鎌倉は平日の方が回り易いかと思って」
「土日はすぐに帰りたくなるくらい、酷い人出ですよね」
 彼の言葉に顔を見合わせて、小さく笑った。次の瞬間、彼が何かに気付いた。
「撮られてますよ、ほら」
「え?」
 言われた方を向くと、先ほど現れた外国人観光客の数人が、遠目から私たちへデジカメを向けていた。
「……ほんとだ。どうして」
「着物が珍しいのかな。一人ならまだしも、男女二人揃っている、というのがターゲットになっているのかもしれませんね」
「あ、なるほど……」
「何だか照れくさいな。ポーズ決めるわけにもいかないし」
 困ったように俯く彼がおかしくて笑ってしまう。ますます照れた彼は、私から顔を逸らして向こうを向いた。
 この人の纏う空気が不思議な程心地良かった。緊張はしているけれど、言葉は躊躇うことなくすらすらと出てくる。初対面の人に対して、普段人見知りの私には考えられないことだった。
 観光客が去ると安心したようにこちらを向いた彼が、首を傾げて私に訊ねた。
「この後は、どこへ行く予定でした?」
「特には決めていません」
「じゃあ駅に戻りがてら、長谷寺へ行きましょうか」
「ええ。今頃はきっと、もみじが綺麗だと思います」
 頷いた彼と一緒にベンチから立ち上がり、大仏様を後にした。

 長谷寺へ到着すると、もう三時過ぎ。
 噂に違わず、大きく枝を伸ばした紅葉が、その葉をほんのりと色づかせていた。やはり盛りはもうあと少し先のようだったけれど、庭園をゆっくりと歩いて美しい葉を堪能できた。
 荘厳な観音様をお参りしてから、お守りを購入した。私は赤いてんとう虫のお守り、彼は手のひらにすっぽり収まる身代わり鈴。
 長谷通りに戻り、近くの雑貨屋へ寄った。外国のアンティークが並ぶお店で、私は帯留めに使えそうなものを探した。彼は何の抵抗もなく、可愛らしい店内で一緒に雑貨を眺めてくれている。
 しばらくすると彼はレジに向かい、何かを買ったようだった。意外なことに驚いていた私は、結局何も買わずにお店を出ることとなった。
「ありがとうございました。すみません付き合わせてしまって」
「楽しかったですよ。普段こういう店には入りませんから」
 優しく笑った彼は立ち止まり、信玄袋に購入したものをしまった。
「歩き慣れていらっしゃいますよね」
 彼が言った。
「そんなことはないんですが、今日は調子が良いみたい」
「それは良かった。僕も一人でいるよりは足取りが軽いかな。……ところで、あの、」
 躊躇うような言葉の続きを黙って待った。
「まだ疲れていなければ、もう少しだけ付き合っていただけませんか」
「ええ、もちろん」

 再び江ノ電に乗った。藤沢行きの電車内で、空いた席に二人並んで座る。極楽寺を過ぎ、稲村ケ崎へ着く手前、窓の向こうに海が広がった。私たちは山の方を向いて座っていたから、後ろの窓を振り向き、二人で青い海を眺めた。
 傾き始めた日の光が、きらきらと海に反射している。今日は暖かかったからか、何人ものサーファーが波に乗っていた。ゆらゆら揺れるヨットも見える。
 七里ヶ浜と鎌倉高校前から学生がどっと乗り込み、私は座席の端に寄った。彼も同じ方向へ体を寄せたから、どうしても密着してしまう。満員電車と同じなんだと思っても顔が火照ってしまい、俯くしかなかった。

 江ノ島駅で降り、賑わうお店の間を進み、その先にある地下道へ入った。地上へ出ると江の島へ続く江の島大橋が現れる。橋の向こう側には江の島。視界が広がり、海風が着物の袖をはためかせた。空の高い所でとんびが鳴いている。
 大きく長い橋をゆるゆると渡り、旅館やお店が立ち並ぶ場所へ辿り着いた。青銅の鳥居をくぐり、坂になっている参道を上っていく。
「疲れませんか?」
「ええ。ゆっくり歩いてくださってるから大丈夫です」
 私を振り向きつつ、気を遣いつつ、ずっと歩幅を合わせてくれていたのが、とても嬉しかった。女性の扱いに慣れているのを感じる。いつもこんな感じなのかな。
 参道の両脇のお店から、いい匂いが漂っている。昔ながらのお土産屋さん、食堂、新しくできたらしいカフェ。人通りも多く、賑わっていた。
 参道を上りきるとだいぶ日が落ちて来たのがわかった。赤い鳥居をくぐり、お参りをする。さらに上に登るには、もう時間が遅いということで、ここから海を眺めることにした。

 人の多い場所から離れて遠くを臨む。日暮れの中に外灯の明かりがあちこち現れ、海沿いの道路の夜景も見えた。
「綺麗」
 夢のような日だった。私には勿体ないくらいの。
「今日はありがとうございました」
 お辞儀をした私に彼も言った。
「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです。本当に」
「私も楽しかったです」
 微笑んで頷いた彼が、信玄袋に手を入れた。いつの間にかやって来た島の猫が、傍のベンチに座ってこちらを見ている。目が合うと、ごろんと寝転がりお腹を見せた。その仕草に笑みが零れる。
「良かったら、これ」
 彼の声に顔を上げると、私に何かを差し出している。
「何ですか?」
「開けてみてください」
 紙袋の中の透明なケースに入った繊細なシルバーのチェーンが見えた。それは、とても小さな乳白色の陶器で出来ているローズのペンダントトップがついた、アンティークのネックレス。
「これ、さっきのお店の!?」
「何度も見ていたようだったので。今日のお礼に受け取って下さい」
 あまりの可愛さに、帯留め探しもそっちのけで、このネックレスを何度も見ていた。結構なお値段だから買うことは止めたんだけれど……
「いただけません、こんな」
「いいんです」
「でも」
 私の言葉に彼が表情を曇らせた。
「後悔しますよ」
「え?」
「後からその場所に行っても、二度と巡り会えないかもしれないじゃないですか」
 その真剣な眼差しと低い声に心臓がどくんと跳ねた。
「手に入れておけば良かった、なんて思うより、買ってから後悔した方がまだいいでしょ?」
 クスッと笑った彼は、私の手からケースを取り、ネックレスを出した。彼は留め具を外し、私の首元にそれをつけてくれた。
「似合ってます。着物でもおかしくない」
「ありがとうございます。申し訳ないですけど、お言葉に甘えて……いただきます」
 首に触れるチェーンが何だかくすぐったい。上の階段を下りてくる人たちが私たちの横を通り過ぎていった。
「あの、私にもお礼をさせて下さい」
「何もいらないですよ」
「せめてお茶くらいは、ごちそうさせて下さい」
「それじゃあ」
 かがんで近づいた彼が悪戯っぽく、にっと笑った。
「?」
「今から夕食に付き合ってくれませんか? 僕、お腹空いちゃって。もう六時過ぎですよね?」
「それはもちろんお付き合いしたいんですけど、あの」
 お茶を驕るくらいなら余裕で持っているんだけど、食事となると心配が先に立つ。もしも足りなければカードを使えばいい?
「僕がお誘いしてるんだから、会計の心配は要らないですよ」
「それじゃあ尚更困ります」
「というか、実はもう予約入れちゃってるんですよ。謝らなければいけないのは僕の方で」
「予約?」
「あなたが席を外している間に。……すみません」
 さっきお手洗いに行った時?
「僕が勝手なことを言ってるんですから、どうぞ気兼ねなく。あ、でも無理なら断って下さいね」
「無理じゃないです」
 本当は、もう少しだけ一緒にいたかったから。
「和食は大丈夫ですか?」
「……好きです」
「じゃあ行きましょう。冷え込まない内に」

 明かりの灯る薄暗い石段を下り、お土産屋さんが並ぶ参道を下っていき、青銅の鳥居をくぐる。外灯の下、空車を表示したタクシーが数台並んでいた。彼のあとについてタクシーの後部座席へ乗り込むとドアが閉まり、運転手さんが言った。
「どちらまで?」
「プリンスまで、お願いします」
 え……? それってもしかして、ホテルの?
 彼の答えに驚いた私はひとつ息を吸い込み、聴こえないように静かに息を吐き出した。タクシーが発車する。前を向き、フロントガラスに迫る江の島大橋を見つめながら平静を装い、考えをまとめた。
 あそこはきちんとしたホテルで、レストランが絶対にあるはずだから、何もおかしな事は無い。食事に行くと彼は言ったんだから、そういうことで……私が考え過ぎなのよ。せっかく誘ってくれたものを必要以上に構えては駄目。私も大人なんだし、これくらいのことで動揺はしない。

 タクシーは海沿いの国道を走っていく。右側に座る彼の向こうに、湘南の海が見えた。日が落ちた後の水平線に近い空はオレンジ色を僅かに残し、降り注ぐ群青に飲み込まれそうになっている。
 贈られたネックレスのペンダントトップをそっと指先で触り、彼の言葉を思い出した。

 ――後からその場所に行っても、二度と巡り会えないかもしれないじゃないですか

 心臓の音と共鳴するかのように、星がひとつ、ふたつと宵闇の空に瞬き始めていた。