紫陽花が咲き始めた六月中旬。
 開店前のホールは外の雨音がしとしとと響いている。仕込みを終えた私は、お客さんに爽やかな気持ちになってもらうためのスイーツを、二人に提案した。

「梅雨が明けてからの新メニュー、オレンジレモンゼリーです! 試食お願いします」
 オレンジ色のゼリーの上に、輪切りにしたレモンを乗せて冷やし固めた。ガラスの器は小さなワイングラスのようなもの。
「うん、美味い。でもちょっとインパクトに欠けるかな? オレンジとレモンだとありきたりというか」
「同感。あと、ゼリーだけって何となくお得感がないよな」
 永志さんと職人さんが交互に意見を出してくれる。
「お得感、かぁ。うーん……もうちょっと考えてみます。それにやっぱり、ありきたりですよね」
 残念だけど仕方がない。多分、そういう指摘がくるだろうなって考えながら作ってはいたんだよね。本格的な夏がくる前にと、少し焦ってしまった。
 柑橘系の爽やかさは使うことにしよう。ゼリーはもっと柔らかめのぷるぷる感を残して……
「いつもありがとうな、くるみちゃん。暑い季節にゼリーはいいと思うんだ。だからもうちょっとだけ、お願いできる?」
「うん、頑張ります!」
「待ってるからね。そして……俺からはバイト決定の発表でーす」
「おっ、決まったのか! くるみは知ってるんだよな?」
 ゼリーを食べ終わった職人さんが身を乗り出す。
「いえ、私も今聞きました。永志さんにじっくり決めて欲しかったので」
 余計な口出しはしたくなくて、面接のことも訊かずにいたんだよね。どんな人なんだろう、ドキドキする。
「新垣 幸太郎(にいがき こうたろう)、二十五歳。調理師の専門学校卒業後、東麻布の『トラットリア・ナノーハ』で四年間働いていたそうだ」
「知ってます、そこ! イタリアンの有名店ですよね」
「そうなんだよ。実は俺も前に、そこへ食いに行ったことがある。本格イタリアンの店だ」
 永志さんが私と職人さんの前に、その人の履歴書を差し出す。私より年下の男性だ……
「有名店勤務って、本当かよそれ」
 職人さんが呟いた。彼は永志さん以上に、椅子カフェ堂で働く人のことを慎重に見ていると思う。私がここで働き始めた頃なんて、すぐ辞めるだろうと、職人さんに疑われまくりだったもんね。
「信じるしかないだろ。一年前にそこは辞めて、今は知り合いの居酒屋で夜だけバイトしているそうだ」
「ふーん、もったいない。挫折でもしたのか?」
「そこまでは聞いてない。ただ、あの有名店で本当に四年も働けたなら、相当の根性はあるはずだ。まぁ、当面はレジとホールに入ってもらいながらの様子見だな」
「いつから来るんだ?」
 職人さんに訊ねられた永志さんは、壁にかかった時計を見上げた。
「もうすぐ来ると思うよ」
「ええっ! きょ、今日からくるの!?」
 こ、心の準備がっ! と思ったそのとき、椅子カフェ堂の扉が開いた。

「あ、きたきた。どうぞ中に入ってー」
 永志さんが立ち上がったので、目を合わせた私と職人さんもあとに続く。白シャツに黒いパンツを穿いている男性は、扉の前でぺこりと頭を下げた。
「おはようございます。新垣です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。今日からバイトに入ってくれる、新垣くん」
 永志さんが私たちに彼を紹介した。私と職人さんで、頭を下げて挨拶する。
 新垣くんは、フレームのない眼鏡をかけたクール系男子だった。身長は古田さんくらいかな? 永志さんたちより10pほど低い。
「彼女は俺の奥さんで、ホールとスイーツ作りをしてる」
「あ、有澤くるみです」
「そっちの彼は、ここに置いてある家具を作ってる。ホールとレジ周りのこともやってくれてる」
「稲本良晴です。どうも」
 職人さんはいつもの調子でにこりともせずに挨拶した。新垣くんも表情は変えずに、無言で会釈する。大丈夫かな、などと心配するのはあとにしよう。
「じゃあ早速、くるみちゃん。事務所の案内して着替えを渡してあげて。そのあとはレジとホールのこと教えてね」
「はい!」
 椅子カフェ堂で初めての後輩だ! 続けてくれるかは私にかかっているかもしれないんだから、しっかり教えてあげよう。

「ここが事務所です。出勤したら事務所で着替えてください。これがシャツ、こっちがカフェエプロンです。ズボンは後日できるので、今はそのままで大丈夫です」
「はい」
 早めにシャツとエプロンを用意しておいてよかった。いつ誰がきてもいいように、サイズもいくつか揃えておいた。
 それにしても笑わない人だなぁ。って、普通はこの段階だと緊張してるもんね。実は私も、ものすごく緊張している。永志さんてば、もう少し余裕を持って教えてくれればいいのに。
「……」
 新垣くんはエプロンとシャツを持ったまま、動かない。どうしたんだろう。私、変なことを言っただろうか? 私を見下ろした彼は、眉をしかめた。
「……あの」
「?」
「着替えたいんですが」
「あっ!! そうだよね、ごめんなさいっ!!」
 きゃー恥ずかしい!! 私のバカ!! 慌てて事務所を飛び出す。早速先輩としての威厳がダダ下がりだよ……!
 気を取り直して、着替えてきた新垣くんにレジを教える。
「昔のレジなので、ちょっとわかりづらいかもしれないんだけど……」
「いや、わかりました。そこのショーケースはテイクアウトですよね」
「そこはなるべく私がやるから大丈夫だよ」
「客が多い時は一人では無理だと思うんで、教えてもらえれば僕もやります」
「あ、ありがとう。そうだよね。じゃあ、えっと」
 すごくテキパキしてる人なのね。さすが有名店で働いていただけのことはある。

 ありがたいことに、ランチ時は毎日外に列ができるほど椅子カフェ堂は盛況だ。小雨とはいえ、雨の中をお待たせするのは申し訳ない。メニューを渡したり、人数を聞いてお待たせしていることをお詫びする。急いでホールに戻ると、新垣くんはオーダーを取りつつ、出来上がった料理を素早くテーブルにサーブしていた。
 私は注文のスイーツを確認しに、厨房へ向かった。
「オーダー入ります。鳥肉とキャベツのクリームパスタ、日替わりランチ、食後にカプチーノとチーズケーキです」
「はいよー。あ、ちょっと待って。バジルグラタンとランチひとつ、出るよー」
「持って行きます」
 新垣くんと永志さんの声が厨房に飛び交っている。私はオーダーのプリンを用意し、新垣くんのあとに続いてホールに出た。
「お待たせいたしました。カスタードプリンです」
「わ、大きい!」
 お客さんの喜んでくれる顔が何より嬉しい。私も顔を綻ばせたその時、後ろの席から新垣くんの声が聞こえた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「ランチひとつと、オムライス。アイスコーヒー二つね」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
「あ、あの」
 別の場所から遠慮がちな声がかかる。
「お待たせいたしました。ご注文でよろしいでしょうか」
 お客さんへの反応が早い。何より、接客がとてもスムーズで無駄のないところは私のほうが見習いたいくらいだ。レジも完璧だし、テイクアウトも普通にこなしている。
 初日からこんなに動けるなんてすごすぎない!? 先輩面しようとしたのが恥ずかしくなっちゃうよ。私なんて、あっという間に追い抜かれそうだ。でも、永志さんのためにはそれは願ったりなことだし。焦るけど、私もモチベが上がるもんね。頑張るしかないか。
「あ、職人さん」
 裏から職人さんがやってきた。彼はレジにいる新垣さんをチラリと見て、テーブルを拭いている私に声をかけた。
「大丈夫か? 大変だったら俺がレジやるぞ?」
「大丈夫です。レジもショーケースもホールも、僕がいれば十分なので。稲本さんは家具作りに集中なさってください」
 私が返事をする前に、レジを出てきた新垣さんが言った。
「……あっ、そ」
「そのために僕が採用されたんでしょうから」
 澄ました顔で、私と職人さんの横を通り過ぎていく。こ、これはちょっとまずいのでは。職人さん、絶対頭にきてそう。
「よくわかってらっしゃることで。くるみに迷惑かけんなよ?」
「当然です」
 新垣くんの背中に向かって放った「ちっ」っていう職人さんの舌打ち。ホール中に響き渡っちゃってますが。お客さんに聞こえてたらどうするの、職人さんてば。

 閉店後、レジの中は既にレジ締めしやすいように小銭がまとまっていた。今日は最後までホールは忙しかったはずなのに、いつやったんだろう。伝票も揃ってるし、ショーケースの中のケーキたちも、残ったものが上段に綺麗にまとめられている。私が新垣くんに教えることなんて何もないに等しいのかもしれない。
「……はぁ」
 ため息を吐きながら、レジ締めを済ませた。

 厨房に入ると、永志さんは明日の仕込みを始めている。彼のそばに新垣くんがいた。
「今度、僕も作らせてもらっていいですか」
「おう、そうだな」
「仕上がりの味、見てもらいたいんで」
「わかった。じゃあ、来週あたりから頼むよ」
「来週でいいんですか?」
 新垣くんの低い声が響く。何となく会話に入りづらくて、二人の後ろを黙って通り過ぎた。私も仕込みをしないと。
「どういうことだ?」
「昼の混雑時ですが、客の回転が悪いように見えました。あれだけの客が入るのに、料理と飲み物を作るのが店長一人だけというのは、いくらなんでも効率が悪すぎますよね」
「まぁ、そうかな」
「飲食店は競争です。客を取られて店が回らなくなって、僕の給料が出なくなったら困りますんで」
「ははっ、大丈夫だよ。新垣くんの給料はちゃんと出すから」
「そういう問題じゃないんです。僕が言いたいのは」
 どうしよう、このままじゃ喧嘩になりそう。自分の厨房に入ろうとした私は、踵を返して彼らの間に入った。
「ま、まぁまぁ。あのね、まだ新垣くん初日なんだし、椅子カフェ堂の雰囲気とかそういうの、もっとちゃんと見てからって店長も思ってるんだよ。だから、ね?」
「……わかりました。余計なことを言ってすみません、店長」
「いや、大丈夫だよ。お疲れさまな」
「お疲れさまです。テーブル拭いてきます」
 眼鏡の真ん中をおさえた新垣くんは、ふいと厨房を出て行った。
「くるみちゃんお疲れ〜。仕込み?」
「は、はい。お疲れ様でした。レジ締めは終わりました。これから仕込みです」
「……ありがとな」
 小さな声で永志さんが言った。微笑む彼に私も微笑み返す。

 しばらくして永志さんが、私の作業の場にくる。
「もしかして新垣くん、上がっちゃったかな?」
「え! どうだろう。何も声はかけてないけど時間はすぎてるから、事務所にいるのかも」
「皆でまかない食おうかと思ってメシ作ってるんだ。ワインも買っておいたんだよ。新垣くんも誘っておいてくれる?」
「わ、嬉しい! 言ってきますね」
 これでまだ一度も見ていない新垣くんの笑顔を見られるかな。美味しい料理を食べて、楽しく話せれば、少しずつ気持ちもほどけてくるよね。
 急いで事務所に行き、扉をトントンと叩く。
「新垣くん、いる?」
「あ、はい。どうぞ」
「失礼します」
 新垣くんは着替えを終えていた。それにしても……今朝のことを思い出すとまだ恥ずかしい。早く忘れてくれるといいんだけど。
「何か?」
「あ、あのね、店長が新垣くんも一緒にまかない食べようって。ワインもあるから、どうかな」
「いえ、僕は帰ります」
「そっか。じゃあ今度ヒマな時に、」
「今後もそういうのはいいです」
「え?」
「僕、別に皆さんと仲良しこよしするつもりはないんで。ちゃんと仕事はやります。でもそれ以上の付き合いは、ちょっと勘弁してほしいというか」
 一瞬聞き間違えたのかとおもったけれど、そうじゃなかった。新垣くんはやっぱりまだ……表情を変えない。
「ということで、お先に失礼します」
「あ、お疲れ様……です」
 事務所を出た新垣くんの足音が遠ざかる。ほどなくして、からりんという音が届いた。今日はまだドアのベル片付けてなかったんだ。

 不思議と腹は立たなかった。
 私は、自分が椅子カフェ堂を見つけた時のことを思い出していた。
 新垣くんは物覚えがよくて、完璧に仕事ができて、多分料理もすごく上手な人だ。でも……自分の中に何か納得がいかないものを抱えているような気がする。
 一日しか一緒に仕事をしていないけれど、何となくそう感じたんだ。