裏の倉庫で作業をしていた職人さんが閉店後のホールにやってきた。
 この寒いのにシャツの袖を腕まくりして、あー暑いなんて言っている。
「お疲れ様でした」
「作戦会議って何だよ。俺、超忙しいんだけど」
 私の声掛けに不機嫌な声で答えた職人さんは、テーブルセッティングをしてある場所の椅子にどかっと座り、背もたれに体を預けた。
「明日、永志さんのお義母さんがここにいらっしゃるんです」
「マジか! あの再婚相手?」
 立ち上がりそうな勢いで身を乗り出した職人さんに、厨房から出てきた永志さんが返事をしながら料理を並べる。
「そ。だから明日の為に気合入れてんの。新作だよ」
「おお、美味そうじゃん」
 湯気の立つスープ皿を覗き込んだ職人さんの目が輝いた。コンソメのいい匂いが辺り一面に漂う。
「腹減ってるだろ? 少しだけ付き合えよ」
「そういうことなら、いくらでも付き合う。手洗ってくるわ」
 職人さんは嬉しそうに言いながら、お店の隅にある小さな洗面所に向かった。

 永志さんの実家を訪れてから六日。
 明日の日曜日に、渋々了解してくれた弓子さんが椅子カフェ堂に来ることになっていた。作戦、といっても新作を完成させることくらいしか出来ないけれど、それでも何もしないよりはずっといいよね?
「これってスープ?」
 ごろごろとした大きな具をスプーンで掬った職人さんが永志さんに問いかけた。
「ポトフな。寒い中来てくれるわけだし、これなら温まってもらえるかと思って。あとは去年も作ったサーモンのグラタンなんだけど、チーズを二種類にして野菜を替えてみた。くるみちゃんも食べて」
「はい。いただきます〜!」
 熱々とろとろのチーズをサーモンと一緒に口へ運んだ。濃厚な美味しさが口いっぱいに広がって、幸せとしか言いようがないよ。
「お、美味しい〜! これならきっと喜んでもらえると思います!」
「そ、そう? 良かった〜」
 永志さんが嬉しそうに笑うと、職人さんが住谷パンにベシャメルソースを浸けながら言った。
「つかさ、何で急に明日来ることになったんだよ?」
「実はこの前の月曜日、実家にくるみちゃん連れて帰ったんだけど、その時弓子さんに俺たちの結婚反対されたんだよ」
「言いそうだよな。親父さんも反対してんの?」
「いや、親父は結婚に対しては反対する理由もないだろうし、くるみちゃんのこと気に入ってるみたいだから、そこは大丈夫なんだけどさ。弓子さんは結婚どころか、椅子カフェ堂の存続も未だに納得してないようだったからな」
「ふーん」
 頷きながらパンを頬張る職人さんに、今度は私が話を続ける。
「それで弓子さんに一度ここへ来て欲しいって、お願いしたんです。椅子カフェ堂に来て、永志さんの料理を食べて下さいって」
「お願いって、永志じゃなくて、お前が言ったの?」
 スプーンを持つ手を止めた職人さんが目を丸くして、正面に座る私を見た。
「う、はい。……私が、言っちゃいました」
 やっぱり傍から見たら図々しいことだったのかな。
「お前ってほんと、何て言うか……。ここに来た時から、そういうとこ変わんねーよな」
 呆れた声を出した職人さんは、スプーンにほくほくのじゃがいもを載せた。
 だって言わずにはいられなかったんだから、仕方がないよ。永志さんの料理とエスプレッソを口にすれば、私が衝撃を受けたように、きっと弓子さんも何かを感じてくれるはずだから。
「そういうくるみちゃんのお陰で、椅子カフェ堂は今ここにある。俺らも。そうだろ? 良晴」
「……永志さん」
 隣に座る永志さんが笑顔で言った。職人さんに向けた誇らしげな表情と、その言葉が嬉しくて、涙が出そうになる。
「で? 俺は何するんだよ?」
 永志さんの言葉に溜息を吐いた職人さんが言った。
「職人さん、協力してくれるんですか!?」
「早くデザート持って来い。それが美味かったら協力してやる。新作なんだろ?」
「はい……!」
 良かった。やっぱり職人さんて優しい。
 急いで厨房へ行き準備をして、二人の前にお皿を並べた。
「アップルパイとフォンダンショコラです」
 この数日、寝る間も惜しんで作ったスイーツ。どうか気に入ってもらえますように。
「アップルパイはバニラアイスを、ショコラは生クリームを軽く泡立てて添えました。どっちも定番なんですけど、その方が食べてもらいやすいかなって。テーブルに出す直前に温め直しています」
 味にうるさい二人に試食してもらうこの瞬間は、いつまで経っても緊張する。デザート用のナイフとフォークを使ってフォンダンショコラを口に運んだ職人さんが声を上げた。
「美味い! これは褒めてやる。温かいのと冷たいのってのは、いい組み合わせだな」
 職人さんの言葉に頷いた永志さんが、ゆっくりと味わいながら私の方を向いた。
「すごく美味しいね。フォンダンショコラはちょうどバレンタイン前で、いいメニューだと思うよ。俺はこのパイが気に入ったかな」
「ありがとうございます! パイ作りが難しかったんですよ〜!」
 永志さんと一緒にスイーツを食べに行った時、彼が私にひとくち食べさせてくれたパイの味が忘れられなくて、それを参考に作ったんだけど、上手くいって良かった! あとはいつものチーズケーキとカップケーキ、プリンがあれば、そこから何かしら選んでもらえるよね?


 翌朝、お店の前にタクシーが停まり、キャメル色のロングコートを着た女性が降り立った。ドアを開けて彼女を出迎える。
「いらっしゃいませ。ご来店、ありがとうございます」
 誰もいない開店前なら、という条件だったから、今はまだ十時十五分。
「今時駐車スペースが無いなんて本当に不便ね」
「すみません。あの……朝食は召し上がりましたか?」
「こんな時間に来たんだから、朝食なんかとってるわけないでしょ」
 髪をかき上げた弓子さんが口を尖らせた。
「では、たくさん食べていってくださいね。私は厨房に入りますので、彼にオーダーをお願いします」
 カフェスタッフ用のパンツと白いシャツ、カフェエプロンに身を包んだ職人さんを紹介する。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
 出たー! 久しぶりの職人さんの営業スマイル! いつもああならいいのに……。ってそれも気持ち悪いか。
 弓子さんがいる間、ホールは職人さんにお願いすることにした。その方が私も永志さんも集中できるし、私たちが接するよりも、他人の職人さんが案内した方が良いのではと、作戦会議で意見が一致した。スイーツを気に入ってくれた職人さんが快く引き受けてくれて助かったよ……。
 爽やかな笑顔の職人さんに促された弓子さんも結構まんざらじゃないみたいだし、もう厨房に入っても大丈夫かな?
 腕まくりをして気合を入れる。よし、何をオーダーされてもいいように、準備万端にしておこう。

「いかがでしょうか?」
 料理をテーブルに届けてから数分後、永志さんが弓子さんへ声を掛けた。厨房の出口から、職人さんと二人でこっそり見守る。オーダーの時に職人さんが勧めてくれたのか、弓子さんはポトフを食べていた。
「ま、悪くはないんじゃない? 意外だけど」
「そうですか! ありがとうございます!」
 永志さんが頭を下げると同時に弓子さんは眉をしかめ、急いだ様子でバッグからハンカチを取り出した。口元を押さえた彼女は、しばらくしてから言った。
「もういいわ、下げて。食後のデザート持ってきて」
「かしこりました」
 次は私の番。せっかく彼の料理を褒められたんだから、私のスイーツでがっかりさせないようにしないと。
 オーダーを受けていたアップルパイを用意して、今度は私が彼女の元へと運ぶ。緊張しながらお皿を差し出すと、永志さんがカプチーノを運んできた。すぐにアップルパイを食べ始めた弓子さんが、私の顔を見上げた。
「うん、まあまあね」
「わぁ、ありがとうございます! 嬉しいです」
 突然、弓子さんの表情が強張り、また口元を押さえた。何となく顔色が悪い。
「弓子さん?」
「……何でもないわ。騒がないで」
 カプチーノの入ったカップを持ち、ひとくち飲んだ彼女が驚いた表情をした。
「このカプチーノ、美味しい……!」
 やったー! と思ったのも束の間、弓子さんはカップをソーサーに置き、再びハンカチで口元を押さえ、今度は立ち上がった。
「う……。ト、トイレどこよ?」
「あ、こっちです」
 案内する私を押し退けて、弓子さんはトイレに駆け込んだ。

「どうしたんだ? 急に」
 私のあとをついてきた永志さんと職人さんが顔を見合わせた。
「私のケーキ、不味かったんでしょうか?」
「いや、俺の作った物が悪かったのかもしれない。さっきも変じゃなかった? 食あたりだったらまずいな……」
 病院へ連れて行こうか、と焦る永志さんに、職人さんが腕組みしながら言った。
「味見とか言って皆で朝から同じもん結構食べたし、カプチーノも全員飲んでるじゃん。俺らが平気なんだから食あたりじゃないだろ」
 言われてみればそうだけど……。その時ふと、先週彼の実家に行った時のことが思い浮かんだ。
「そういえば、この前も食欲ないって言ってましたよね? あんまり具合良くないんでしょうか……」
「そうかもな」
 不安げに頷く永志さんの肩を職人さんが叩いた。
「その割には元気そうにオーダー選んでたぞ。……なぁ、もしかしてアレじゃないの?」
「アレって?」
「俺がさっきオーダー取った時、デザートのこと聞かれたんだけど」
「何を聞かれたんですか?」
「柑橘系のデザートないかって。酸っぱいのが食べたいとか何とか」
「……すっぱいの」
「それであの様子じゃ、アレっぽいって思うじゃん?」
 三人で顔を見合わせる。それって、も、もしやもしや!?
「アレって、おめでたいことですか!?」
「そうそう」
「えええ!! マジか!!」
 ようやく気付いた永志さんも大きな声を出した。ちょうどトイレから出てきた弓子さんを、皆で一斉に振り返る。
「な、何よ。そんなにジロジロ見なくてもいいでしょ。気分が悪くなっただけで吐いてはいないから。悪かったわね、食事中に」
「……弓子さん。もしかして赤ちゃん、なんてことあります?」
「へ?」
 永志さんの質問に、ぽかんとした顔を見せた弓子さんは、次の瞬間真っ赤になって自分の両頬を両手で押さえた。
「え、うそ。まさか、嘘ーー!?」
 弓子さん、可愛い……! なんて思ったら失礼かもしれないけど、その意外な表情に釘付けになってしまった。私だけじゃなくて永志さんも職人さんも驚いてる。私たちの表情に気付いた弓子さんは、すたすたと歩いて座席に置いたコートと荷物を持ち、レジ前に立った。
「帰るわ。ごちそうさま。おいくら?」
「いや、いらないです。ありがとうございました。とても嬉しかったです」
 弓子さんは、お辞儀をした永志さんの前を通り過ぎ、椅子カフェ堂のドアを開けて表に出た。時計は十一時五分前。開店前の静けさが訪れた。
 でも、何だろう。何だか、これで終わりじゃいけない気がする……。
「私、弓子さんを送ってきます!」
 事務所へ飛び込み上着を持った私は、彼女を追いかけて椅子カフェ堂を後にした。

「駅まで送ります」
 石畳の通りにいた弓子さんに駆け寄り、隣を歩く。すぐに追いついて良かった。
 今日は日曜日だから人が多い。可愛らしいバレンタイン商品が並ぶお店が目立つ。私も帰りに覗いて行こうかな。
「あなた、お仕事でしょ? 別にいいわよ。タクシー拾うから」
「駅前に行かないと、なかなか来ないんです。だからそこまで送らせて下さい」
「……」
 弓子さんは返事をすることなく、早足で歩き続けた。天気はいいけれど風が冷たい。
「寒くないですか?」
「別に」
 どう言えばいいのかわからなかったから、そのまま伝えることにした。
「私、永志さんと結婚します」
「知ってるわよ」
「椅子カフェ堂を失くしたくなかった時のように、私、永志さんのこと、諦めたりしません」
「あなた、どうして永志さんに義志さんの会社を継がせないのよ? あんな小さい店じゃ、この先あなた自身が苦労するのは目に見えてるでしょうに」
 弓子さんが声を荒げた。誰に何と言われても、私の答えは決まっているから。
「大切な場所だからです」
「大切な場所?」
「永志さんにとって大切な場所は、私にとっても大切な場所なんです。だから永志さんとずっと一緒に椅子カフェ堂にいたいんです。許してもらえませんか?」
 駅前のバスターミナルにあるタクシー乗り場に着いた。誰も並んでいない。お客さんを待つタクシーの前に弓子さんが向かうと、自動でドアが開いた。私も後をついて行く。
「勝手になさい。この先、永志さんなんかに期待することは二度とないから」
 さっさと乗り込んだ彼女に声を掛ける。
「あの、お体、大事にして下さいね」
「まだそうと決まったわけじゃないでしょう」
「そうですけど……」
「この前もらったチーズケーキ、美味しかったわよ」
「え」
「出してちょうだい」
 彼女の合図にドアがバタンと閉まる。窓の向こうに座る横顔に向けて声を出した。
「また、来て下さいね……!」
 一瞬、その横顔に笑みが浮かんだように見えた。

 弓子さんが帰った後、お店は新作目当てのお客さんで賑わい、あっという間に一日が過ぎた。
「よいしょ、っと。くーっ、寒い!!」
 急いで表の立て看板を中に入れて、椅子カフェ堂のドアを閉める。お客さんが帰った後の誰もいないホールで店じまいの準備をしていると、厨房の片づけを終えた永志さんがホールのロールスクリーンを下ろしてくれた。職人さんは明日の朝早くから仕入れ先に行くと言って、今日はもう帰ってしまった。
 カウンター前だけ残し、店内の照明を落とす。明日は定休日だから仕込も無くて、この時間はゆっくり出来る。
「さっき親父から連絡あったよ。検査薬で反応出たんだってさ。明日一緒に病院行くらしい」
「やっぱりそうだったんですか……!」
「親父も、あの歳で頑張るよな〜。つか俺、今さら弟か妹が出来るって、どうしたらいいんだよ〜」
 永志さんが照れたように笑ってるから、私まで釣られて笑顔になってしまう。
「楽しみですね」
「うん。でも、先越されちゃったな」
「え?」
「子ども。……なんてな」
 取られた手を引っ張られ、永志さんの腕の中に閉じ込められた。先越されたって……、子どもって……もしかして私たちの? 気付いた途端、顔どころじゃない体中が一瞬で熱く火照った。さっき外に出て寒さを感じたばかりなのに。
「親父がくるみちゃんに伝えてほしいって」
 私を抱き締めながら彼が言った。永志さんの腕の中、とっても温かい。
「何をですか?」
「永志をよろしくってさ。何か、前にもそれ言ったんだって?」
「そういえば……永志さんがここで『カフェどころ』をお父さんに見せた時、帰り際に言われました」
 私の肩を優しく叩いてくれたっけ。あの時の表情が永志さんに似ていたのを覚えてる。
「その時点で、親父はこうなることがわかってたみたいだよ。俺とくるみちゃんが何かあるって」
「あの、弓子さんは……まだ反対していらっしゃるんでしょうか?」
 私の言葉に永志さんが笑った。
「もうそれどころじゃないらしいよ。親父が歳だってことで、元々子どもは諦めてたみたいだから、余計に喜んでるらしい。まぁ、何にしても良かったよ。くるみちゃんのご両親にも了解はもらってるし、これで堂々と結婚できる」
「はい」
 嬉しくなって顔を上げると、こちらを見る彼と目が合った。穏やかな視線に包まれて、また胸が熱くなる。
「俺、弓子さんに対して、ずっと自分の中で燻ってたことが、今回彼女にここへ来てもらったことで、いい加減もういいか、ってやっと思えるようになった。だから、提案してくれてありがとう」
「私、永志さんが家族みんなから祝福されて欲しいって、そう思ったの」
「くるみちゃん……」
「そのお手伝いが出来たなら嬉しい、です」
 言い終わったと同時に、強く抱き締められた。
「もう一緒に住んじゃうか?」
「え!」
「なんか俺、結婚するまで待てない。一日中一緒にいて。ずっと離れないで傍にいて」
 再び、ぎゅーっと抱き締められて息が出来ない程苦しくなる。嬉しくて幸せでいっぱいで、何でも言うことをきいてしまいたくなる、大好きな人。
「……永志さん。でも、それはあの、まだやっぱり」
「わかってる。困らせてごめん。もちろんまだ我慢するよ。でも、今の俺の正直な気持ちだからさ」
「うん。嬉しい」
 私の顎を持ち上げた永志さんが目を細めて囁いた。
「一生大事にするよ。……させて」
「私にも、させてくださいね。永志さんのこと」
 頷いた彼は私に優しく唇を重ねた。永志さんの唇と柔らかな舌に溶けそうになりながら、甘いキスに身を委ねる。好き、って何回言ったんだろう。何度伝えても伝えきれない。
 定休日前の夜。私はいつも通り、このあと彼の部屋で幸せを確かめ合う長い時を過ごした。



+


 二月に入り、新作メニューは順調に売り上げを伸ばしていた。永志さんのポトフはチラッとだけど雑誌で紹介されたし、私のフォンダンショコラはバレンタインの時期ということもあって、カップルがオーダーしてくれることが増えたんだよね。
 最近、何もかも上手くいっていて怖いくらい。あーこの幸せがずっと続きますように……! 神様お願いします!
 そんなことを考えながら時計を見上げると、もう六時半を過ぎていた。忙しいと一日が過ぎていくのが早い。ちょうどお客さんいないし、伝票確認しちゃおうかな。と思ったその時、からりんとドアのベルが鳴り、スーツ姿の男性が入って来た。
「いらっしゃいませ。あ、古田さん!」
「どうも。テイクアウトだけしたいんだけどいい?」
 眼鏡の真ん中を押さえた古田さんが、ショーケースを覗き込んだ。
「もちろんです。あ、でももうチーズケーキとプリンくらいしか残ってなくて……」
「うん、いいよ。チーズケーキふたつお願いね」
「もしかして、奥様の分ですか?」
「うん、まあそう」
「仲良しなんですね〜」
 ショーケースからチーズケーキを取り出し、箱に詰めた。
「くるみちゃんたちは、結婚まだ?」
「え、えへへへ〜……。実は決まったんです」
「え、ほんとに!?」
 お財布からお札を出した古田さんが驚いた声を出した。うん、私だってまだ信じられないくらいだもんね。
 永志さんにプロポーズされて夢のようで……弓子さんに反対されたけど、それもクリアできて、今は本格的に式場を探し回っている、なんて。
「ったく、毎日へらへら笑ってて気持ち悪くてしょうがないんですよ」
 職人さん、いつの間に……! 通り過ぎながら舌打ちをした職人さんに、古田さんが笑って頷いてから、私の顔を見た。
「おめでとう、くるみちゃん」
「ありがとうござます。一応その……五月に予定してるんです」
 古田さんが今まで見たことの無いような優しい表情を私に向けたから、思わずどきりとした。結婚したから余裕があるの、かな。でも、それにしては何となく寂しそうにも見えた。
「あの、いろいろ教えてください。結婚された先輩として」
「……そんな、教えることなんてないよ」
「仲良しの秘訣とか教えてくださいね」
 私の思い違いだよね。新婚なんだし、照れているだけなのかも。
「あ、そうだ! 餡子のことでお世話になったし、今度椅子カフェ堂に奥様といらしてください。私、お礼にごちそうします」
「うん、ありがとう。その内ね」
「お待ちしてます」
 にっこり笑った古田さんは、椅子カフェ堂の扉を開けて出て行った。からりんと響く音と同時に、厨房から永志さんが出てきた。
「あれ、古田さん行っちゃった?」
「はい。今、お店出たばかりだから呼んできましょうか?」
「いや、二次会のこと言おうと思ってたんだけど、まぁまた今度でもいいか。まだ先の話だし」
「二次会って、結婚式の?」
「そうだよ。俺とくるみちゃんの」
 微笑んだ彼の言葉に、一気に顔が熱くなる。私と永志さんの結婚式。さっき古田さんに自分で言ったクセに改めて言われると、途端に恥ずかしくなってしまう。
「二次会って、どこでやんの?」
「ここだよ」
 職人さんの質問に、永志さんがにっこり笑って答えた。ここって、ここ……!?
「このホールでやるのかよ?」
「そう。俺とくるみちゃんがホスト役。二次会っつっても準備があるから、式とは別の日にするかもしれないけど。あ、良晴も手伝ってくれよな」
 ホスト役が永志さんと私、ってことは、何か作って出すのかな。
「あの、どんなことするの?」
「店閉めたら、あとで教えるよ。いつもお世話になっている人たちが楽しく過ごせるように、いろいろ計画しよう。良晴も残れよ」
「まかないくれたら、いつでも残ってやる」
「おう。酒買ってあるから飲もうぜ」
 二人のやり取りを聞きながら、椅子カフェ堂のホールを見渡した。
「……椅子カフェ堂で、結婚式の二次会。お世話になった人たちを、呼んで」
 心の声ダダ漏れだけど、呟かずにはいられない……!
「すごく素敵です! ど、どうしましょうか! 飾りつけから考えなくちゃ……あ〜想像するだけで、わくわくする……!」
「よしよし。後でまかない食べながら、ゆっくり考えような」
 ぽんぽんと私の頭を優しく撫でた永志さんは、ゆっくりと歩いて厨房へ戻って行った。職人さんは新しくできた椅子をどこへ置くか悩んでる。
 いつもの光景なのに、今夜はそれがいつもの数倍、幸せに感じた。







番外編「大切な場所」完結です。
次話は、このお話のすぐあと、良晴視点になります。