「なんだよ、ねーじゃん」
 冷蔵庫を開けて自分の失態に気付く。コンビニで買っておいたと思ったプリンがない。そういや昨夜、残業中に食っちゃったんだっけ。あれがないと午後の仕事のモチベが上がらないっつーの。

 やる気を失くして事務所でだらだらしていると、遠くからベルの鳴る音が聴こえた。ホテルのフロントにあるような卓上ベルね。
「良晴ー! まかないー!」
「今行くー」
 椅子から立ち上がり、パソコンを消して事務所を出る。
 ホールの隅にあるテーブルの壁側に永志が座っていた。客は一人もいない。
「お疲れー」
「俺はあんまり疲れてない。永志は?」
「同じく。大体いつも通りだな」
 それって、今日もランチ時に五組くらいしか客が入らなかったってことか。
「豚の生姜焼き丼と味噌汁ね」
 白米の上に細い千切りキャベツが載り、その上に豚肉と玉ねぎを炒めた生姜焼きが溢れそうなくらいに盛ってある。味噌汁には、とろろ昆布に青ネギが散っていた。
「へー味噌汁にとろろ昆布入れんだ?」
「うん。ばーさんがたまに作ってた。結構いけるよ」
「うまそー。いただきます」
「どうぞ」
 息を吹きかけて冷まし、熱い汁を吸いこんだ。
 静かだ。店内に音楽が流れてはいるけど、俺たち以外に誰もいないから、箸を動かす音くらいしか聞こえない。この状態がほぼ毎日続いている。
 半分ほど生姜焼き丼をかっこんだところで、永志に話しかけた。
「今日バイトいないの?」
「うん」
「ここんとこ見ないけど、休みか」
「辞めたよ」
「は? 辞めた? また?」
「うん」
 永志は表情を変えずに黙々と箸を動かし続けていた。
 これで五人目くらいだっけか。入れ替わり激しすぎて、最初の頃にいたバイトなんて名前どころか、どんな顔してたかも忘れたわ。
 目の前にいるこいつは、一見愛想もいいし優しげに見えるけど、かなりやっかいな男だ。人の好き嫌いが激しく、見た目に似合わず真面目で努力家で潔癖で、それを他人にまで無意識に要求するところがある。
 職種が違うからか、俺には一切そういうことは求めて来ないんだけどさ。

「お前の店だから、うるさいことは言いたかないけど、この短期間に辞め過ぎじゃね? まだオープンして三か月なんだからさ」
「辞めたっていうか、辞めるように仕向けたのは俺なんだ」
「チーズケーキどころか、何も作れなかったとか?」
「いや、最近辞めた子には、初めからスイーツの件は期待してなかった」
 どんぶりをテーブルに置いた永志は、麦茶の入ったグラスを手に取り、こちらを見た。機嫌悪いな、この顔は。
「無断で遅刻したり、客がいないからって普通に座って漫画読んでるし、勝手に早退するし、俺そういうの無理。限界」
「だったらもう、お前一人でもいいんじゃん? 客は少ないし、ホールだって広くないんだしさ」
「……無理なのかな」
「え?」
「スイーツ作れる子。別に女の子じゃなくてもいいんだけど」
「菓子職人の募集でもかければ」
「いや、もうそれ懲りたから」
「あーいたな、そういえば。入ってすぐに辞めたやつ」
 紹介されたパティシエの女だっけ。
「あんまり本格的でも困るんだよ。プライド高いし、第一こっちはそんなに金出せないし。趣味で楽しんでます、みたいな女の子ってもう都市伝説レベルなのかね〜」
 空が急に曇って来たのか、カーテン越しに窓から入る日が陰った。鬱陶しい梅雨が明けるのは、まだまだ先だ。
「お前、彼女いなかったっけ? 作ってもらえば?」
「いないよ。今はそういう気持ちになれない。つか、お菓子作れるような女の子と付き合ったことない」
 客来ないな〜と言って永志は時計を見上げた。俺も一緒に目をやると、時計の針は午後三時を指していた。

「親父さんの言った条件て、本気かね」
「本気だろ」
「どうすんの?」
「俺はこの店を潰す気も、親父の会社を継ぐ気も無い。とにかく今できることをやるしかない。それにはスイーツなんだよ、多分」
「お前の料理とコーヒーは最高に美味いと思うよ。お世辞じゃなく」
「ありがと」
 雨が降り出したみたいだ。窓の方を向いた永志が静かな声で言った。
「親父がどうのっていうのは取り敢えず置いといてさ。俺は純粋に、ここを人が来てくれる店にしたいんだよ。いろんな人が気軽に入れて、何度も来てくれる店にしたい。でも何で人が入らないのか、わからないんだ」
「悪いけど俺もわかんねーなー。カフェって言われてもコーヒー飲むくらいしか知らないし」
「このままじゃ親父に提示された期間前に経営自体が駄目になる」
 永志はうな垂れて頭に手をやった。
「またバイト雇うの?」
「一応そのつもり。なるべくお菓子作れる人の方向で」
 何気なく思いついたことだけど、行き詰った永志には、とにかく何かを言ってやりたかった。
「じゃあどうしたらいいのか、そのバイトに訊いてみれば?」
「え?」
「客観的意見が欲しいなら、それが一番手っ取り早いんじゃね? そういうことに協力してくれるかどうかはわからないけど」
「なるほどね。でもそんなこと訊いたら、うちが経営難だって思われない?」
「それは面接の時点ではっきり伝えておけばいいじゃん。さっきお前が言ったみたいに、何で人が入らないのかわからないって正直に言えば」
「……うーん」
 腕組みをした彼は難しい顔をして、話を続けた。
「もしもだよ? スイーツを作ってくれる子が奇跡的に現れたとして、面接でそれ言った途端話が潰れたら……せっかく来てくれたのに勿体ないよな」
「お前が嫌なら無理にとは言わないけど」
「いや、良晴の言い分が正しいのはわかってる。騙すわけにもいかないしな」
「話が違う、って途中で逃げられても、その方が困るんじゃないの。パティシエのチーズケーキの時みたいにキレられたらどうしようもないし」
「……だよな」
 降り出した雨が強くなっている。雨宿りに店に入ってもらえればいいけど、外を通る人が減れば結局ここに来る確率も低くなるだけか。
「俺の理想のチーズケーキを作ってもらいたい、っていう願望はまだ捨てられない。そんで真面目で素直で元気で可愛かったら最高なんだよな〜。時給も速攻上げるのに」
「んな、都合いいのがくるわけないだろ。今までだってなかったんだから」
「わかってるよ」
 チーズケーキの拘りは、永志のばーさんが幼い頃作ってくれたものに由来している。それがどんなに美味かったのか俺も興味があるし、ぜひ味わってみたいとも思う。
「良晴の方は売れてる?」
「ぼちぼち。焦っても仕方ないし」
「だな。焦るのは良くないよ。良くないんだけどさー」
 立ち上がった永志は椅子カフェ堂の扉に向かった。ドアを開けて店内の隅にあった傘立てを外に置く。
「あーあ、お前が言った通り、俺ってやっぱり客商売向いてないのかなー」
 再びホールに入って来た永志が大きな声で言った。
「知らねーよ。ごちそーさん」
 たとえここが潰れることになっても、俺は最後まで付き合ってやるつもりだけどね。


「お! 売れた売れた!」
 スツールとダイニングチェアが二つ。合計三つに注文が入った。オーダーメイドではなく既存の家具の注文だ。
 永志がバイトを雇う、と宣言してから一週間が過ぎた。あの時話したことを、あいつが実行できるかはわからないけど、もしも面接に来た人間がスイーツを作れる奴だったら、永志が浮かれてしまう前に俺が釘を刺してやらなきゃならない。店に人が来るように、一緒に考えて協力してもらえるかどうかを先にはっきりさせておかないとな。
「注文の品、ホールに一個置いてあったな。一応確保しておくか」
 家具を置いてある、ホールのレジカウンターの傍に急いだ。椅子を確認したところで異変に気付く。
「ん?」
 ホールに人けが無い。厨房を覗きに行っても誰もいない。
「永志……?」
 カフェミュージックと自分の声だけが妙に響いた。椅子カフェ堂の扉を開けて外に出る。梅雨が明けたのかと思うくらいの眩しい日差しに、思わず顔を歪めた。
「どこ行ったんだよ。鍵開けっ放しで不用心だな」
 右を見ても左を見ても、通りに永志の姿はない。
「客が来たらどうすんだっつの。俺、何も作れないんだからな」
 店に戻り、誰もいないホールに佇んだ。何となく壁に貼ってあるカレンダーを見る。もう七月上旬か。
 永志の親父さんが提示した条件をクリアしなければ、来年にはこの店がなくなる。俺は別に実店舗がなくてもやっていけるけど、あいつは……。ここを守りたいって言ってた永志にとってはつらい結果だよな。
 溜息を吐いてカウンターに寄りかかった。
 仕方ない。帰ってくるまで店番するか。せめてあいつが今どこにいるのかだけは確認しよう。客が来たら水とメニューだけ出して待っていてもらえばいい。
「あ、スマホ事務所に置きっぱだ」
 事務所に戻り、机に置いてあったスマホを手にした。着信はない。こちらから連絡しようとしたまさにその時、椅子カフェ堂のドアがカラリンと鳴った。ヤバい、客か!?
「おーい良晴、ただいまー!」
 なんだ永志か……。ホッと胸を撫で下ろすと、話し声が聴こえた。客と一緒に入って来たんだろうか? とりあえずさっきの注文メールの返信だけ済ませてから、ホールを覗いてみるか。

 パソコンの作業を終えて椅子の上で伸びをした。立ち上がって事務所を出、レジの後ろを通った時、エスプレッソのいい香りが鼻先に漂ってきた。やっぱり客か。

 一歩踏み込んだホールに目をやると、永志と向かい合わせで座っている、ちっこい女が見えた。
 ……誰だ、あれ。






後編へ続きます。