準備を終えた、開店一時間前。
 厨房の奥、もうひとつの小さい厨房を借りた。

 ホールでお行儀よく客席に並ぶ二人の前に、それを置いた。
「お待たせしました。今さら感満載なんですけど、夏のデザートを作ってみました。どうでしょうか」
 夏のデザートがアイスとかき氷しかない椅子カフェ堂に、何か簡単に作れるものはないかと、家で試行錯誤した。
「家からミキサーとグラス持って来たの? 重かったんじゃない?」
「全然大丈夫です」
 二人の前に座り、両手でずいっとグラスに入ったデザートを彼らの目の前に押す。胡散臭そうなものを見る目で職人さんが覗き込んだ。
「これ何?」
「名前はありませんけど、強いて言えば、グリーンスムージーに近いです。ちょっと違うんだけど」
「出たよ。最近流行ってるやつだろ? 俺苦手。デザートじゃないじゃん。ダイエット中のメシの代わりなんじゃなかったっけ?」
「それとは違うの。とにかく飲んでみて下さい。店長もどうぞ」
「うん、ありがと」
 店長がグラスを手に取ると、職人さんも渋々同じようにした。
「なんかもう、見た目がさあ、でるでるしてるしさあ……」
「いいからいいから。早く早く」
 口を付けた二人が同時に微妙な顔をした。う、やっぱり駄目か。
「俺、この舌触りがちょっと。ごめん。女の子って好きだよね、こういうの。味はいいと思うけど」
 謝った店長の横で、職人さんが舌をべっと出した。
「確かに味はまあ悪くないけど、この舌に残る感じがな〜。俺も無理」
 もう慣れたもんね、こういうの。負けないんだから。
「わかりました。もう一種類作って冷やしてあるので、少しお待ちください」
「もういいよ〜。同じようなのだろ?」
 職人さんの言葉は無視して、もう一度厨房に入る。

 さっきと同じように二人の前に、別のものを出した。
「さっぱり系のフローズンドリンクです。スプーンでどうぞ」
 今度は二人とも嫌な顔をせず、スプーンで掬って、繰り返し口に運び続けた。
「これ美味いじゃん」
「いいね。味はグレープフルーツとオレンジ? 色が鮮やかだけど、ピンクグレープフルーツ使ってるの?」
「そうです。オレンジはブラッドオレンジを使いました」
 フローズンドリンクの上に生クリームを絞り、ミントの葉を一枚載せてある。
「生クリームが甘くないか? いらないんじゃん?」
 ほとんど食べ終わった職人さんが言うと、店長が首を横に振った。
「いや、見た目的にいいと思うよ。可愛いから女の子に受けるんじゃない? 生クリームの甘さを控えれば合格かな」
「やったー! ありがとうございます! じゃあリニューアルの時に」
「これ一種類じゃなんだから、試しにこっちもやっちゃうか? 味は悪くないし、男と女じゃ感じ方が違うんだろうし」
 店長はさっきのグリーンスムージーを指差した。
「ありがとうございます!」
「売れないようだったら、すぐやめよう。期間限定でいい?」
「もちろんです」
「デザート用のミキサー、新調するか。材料費教えて」
 採用になって嬉しいんだけど、チーズケーキだけはまだ不合格なんだよね。


「お先に失礼します」
「はい、また明日ね〜」
 閉店後、片付けを終えた私は店長に挨拶をし、お店を出た。職人さんは用があるからと、一足先に出ている。外はまだ蒸し暑さが残っていた。生温い風が吹いている。空を仰ぐと、珍しく五つ以上星が確認できた。
 この辺りの飲食店や雑貨店は都会といえども、お酒が飲めるところ以外は閉まる時間が早い。まだ八時半だけど、周りのお店は椅子カフェ堂と同じに、closedの看板をドアノブに掛けているところがほとんどだった。

 駅前の花屋さんは遅くまであいている。プチブーケを見つめて考えた。
 チーズケーキを完成させること。それ以外にも、しなければいけないことが山ほどある。
 ホームページを新しくして、そこに雑貨のページを作る。少しずつ画像を撮っているけど、こんな調子じゃ間に合わない。それに合わせて立て看板に貼るメニューの画像。それから、目の前にあるようなお花を少し飾りたいから、どんなふうにお店に置くのか考えたい。予算は少なく済んで、でもインパクトのあるリニューアルにしたい。
 毎日、目が回りそうなほど忙しいのに、楽しくてたまらなかった。こんなに充実しているのは生まれて初めてかも。
 駅の構内に入り、スマホをバッグから取り出そうとして気付いた。
「あ! 忘れて来ちゃった……」
 休憩時に書いておいたチーズケーキのレシピメモ。思いついたことがあって殴り書きしておいたのを、そのまま机の上に置いて来てしまった。情報量多めに書いたから、今日はどうしても家で使いたかったのに。
 店長いるかな。お花屋さんでぼんやりしてたから、椅子カフェ堂を出て三十分近く経ってしまった。仕込みはお客さんのいない時間に終わらせた、って言ってたから、もしかしたら出掛けてしまったかもしれない。店長のスマホの番号は知らない。お店に電話して、もしお風呂に入ってたりしたら迷惑だろうし……。
 とりあえず戻ってみよう。駅を出て小走りに椅子カフェ堂へ急ぐ。

 息を切らしてお店の扉に手を掛けると、鍵が開いていた。ドアを押しても音が鳴らないことを不思議に思って上を見ると、ベルが外されている。
 ホールは暗く、しんとしていた。厨房から明かりが漏れている。
 足音を忍ばせて明かりに近付く。中を覗くと店長がいた。
 厨房でボールやお鍋を使って忙しそうに動き回っている。手際よく食材を刻み、合間にソースパンで何かを作って味見をしてる。
 仕込みは終わったって言ってたのに、何をしてるんだろう。
 彼は何度も何かを熱心に見ながら、味を確認してはそこに何かを書き加え、そしてまた次の手順に進めていた。それはノートのようだった。レシピを書いたもの……?
 店長は袖をまくった二の腕で、額の汗を拭いた。その横顔は、今まで見たことの無いほど真剣なもので、気安く声を掛けてはいけない雰囲気だった。

 その様子を見つめ続けていると、ふいに店長がこちらを見た。
「おわっ! びびったー! くるみちゃん? どうしたの?」
 気付かれちゃった。邪魔したくなかったんだけどな。
「忘れ物しちゃって、すみません」
 ううん、違う。
「ドア開いてた?」
「開いてました。不用心ですよ」
 私、もっと見ていたかったんだ。その横顔を。
「さっき商店街の電気屋のおじさんが来てさ、少し話してたんだよ。そんで、そのまま開けっ放しだったんだな」
「ベルは外してるんですね」
「ああ。大事なものだから、皆が帰ったあとに外して磨いてんの。レジに置いてあるよ」
 待ってねと言って厨房に入った店長は火を止め、もう一度味を見た。頷いてから、またこちらに近付いてくる。
「あの、お邪魔してすみません。続けて下さい」
「平気だよ。一区切りついてるから」
「あの、それって仕込みじゃないんですよね」
「そうだよ」
「もしかしていつも、お店が終わってから毎日こうやって……?」
「うん、まあ。新しいメニューと、あとは忘れちゃいけないのと、いろいろと」
 照れくさそうに笑った店長は顎に手を当てた。
「大変なんですね」
「そんなことない。皆やってるよ、これくらい。終わったら上で寝るだけだし」
 どこかに出かけたりしないのかな、誰かと。
「あ、そうだ。渡そうと思ってたんだ」
 カフェエプロンで手を拭きながら、店長はレジに行って鍵を開け、中から何かを取り出した。
「はい。店の合鍵」
「いいんですか?」
「いいよ。信用してるから」
 手を出しなと言われて両手を差し出すと、そっと鍵を載せてくれた。目に見えない大切な重みが、手のひらに加わった気がする。
「本当に?」
「俺は頑張ってる人は評価する。なーんて、偉そうに言える立場じゃないけど、でも……」
「?」
「頼りにしてるからさ。ほんとに」
 優しい声と目を細めて私を見る視線に、体が金縛りにあってしまったように身動きが取れなくなった。何となく視線を外せなくて見つめあっていると、店長がクスッと笑って私に手を伸ばしてきた。
 え、え、何? どうしたんだろう、急に。
 一歩近づきすぐ傍まで来た店長の大きな手が、私の頭に触れた。咄嗟に肩を縮めて目をぎゅっと瞑る。
「なんで葉っぱついてんの? ほら」
「あ……」
「風強かった?」
 葉っぱを取ってくれたんだ。びっくりした……。心臓がまだドキドキ言ってる。一人で勘違いして、馬鹿みたい。恥ずかしいな、もう。
「台風が来るみたいです。明後日あたり」
「明後日かよ」
 我ながらトンチンカンなことを言ったなと思う。溜息を吐くと、彼が小さく呟いた。
「可愛いな」
 店長は手にした小さな葉っぱをくるりと回した。
「可愛いよ、くるみちゃんは」
 これは特別な感情で言ってる訳じゃないんだから、焦っても仕方がないの。赤くなってるのを悟られたくなくて、私は慌てて話を変えた。
「どうして」
「ん?」
「どうして、チーズケーキなんですか?」
 そこまで拘る理由が知りたい。店長の望むものを上手くできない自分がもどかしかった。
「くるみちゃんは?」
「え?」
「どうしてそんなに頑張るの? 俺にそこまでする義理なんか、一つもないでしょ? どうして?」
 いい加減な気持ちで働きたくなかったから。自分を変えたかったから。好きな事を仕事にできる幸せを手放したくないと思ったから。そして、もうひとつ……
 何も答えられずに黙っていると、彼が静かな声で言った。
「もう少ししたら、お互い話せるかな」
「……店長も?」
「うん。そのうち話すよ」

 事務所に行き、置きっぱなしのメモをバッグにしまう。素早くホールへ戻り、待っていてくれた店長に頭を下げた。
「お先に失礼します。何度もすみません」
「気を付けて帰んなね。明るい道、通るんだよ」
「はい。店長、頑張って下さいね」
「おう。くるみちゃんもな! おやすみ」
「おやすみなさい」
 再び椅子カフェ堂を出たところで、大きく深呼吸した。
 職人さんが言う、店長の気難しいところ。それはきっと、見かけによらず、とても真面目だからなんだ。いつもこんなふうに陰で努力して、それを自慢したり、口にすることはないけど、真剣で真面目に取り組んでいるからこそ、許せないことがあるのかもしれない。

 もうひとつの理由が、店長に嫌われたくないから、なんてそんなこと言ったら……いけないよね。