「やってみるか、テイクアウト」
 事務所で椅子に座る店長がアンケート用紙を捲りながら言った。
 最近は閉店後、仕込みの前にこうして二人で休憩がてら話し合いをするようになっていた。
 カプチーノを口にしながら店長が話を続ける。
「アンケートで十人、って多いよな。ホームページのアンケートにも入ってるし。この前も店で言われたんだよね?」
「はい。親子のお客さんに」
「準備に時間はかかるけど、やってみる価値はあるよな。あとは俺とくるみちゃんの手が空くかどうか、かな。スイーツの品数も増やさなくちゃならないし。くるみちゃんが少しでも大変だと感じるならやめよう」
 斜め前に座る私を店長が見た。
 お客さんの要望があるのなら、少しでもそれに応えたい。多少の無理は仕方がないし、店長が言っていたように行動する前から諦めたくはない。
「いえ、やりたいです。やってやれないことはないと思っています。店長にホールやレジをお願いすることが度々あるかもしれませんけど、それでもいいですか?」
「もちろんそれはやるよ。よし、頑張ってみるか!」
「はい!」
「厨房屋行かないとな。ショーケース見に行こう」
「あの、私にも払わせて下さい。結構な金額しますよね?」
 アンケート用紙をまとめた彼が驚いた顔で私を見つめた。
「こういうのはオーナーの俺が出すのは当たり前。出来ないことは誘わないから心配すんなって」
「でも」
「大丈夫だよ。これでも貯蓄はまだあるし、家賃がかからない分はラクしてるんだから。な?」
「はい。じゃあ今回は甘えちゃいますね」
「おう。甘えろ甘えろ」
 パソコンでショーケースを検索した彼が話しを続けた。
「一応中古から見に行くけど、結局は新品を買うことになるかな〜」
「どうしてですか?」
「いいものはいいんだけど保証が無い物が多いし、結局壊れるのが早かったりするからやめておけって先輩に言われてる」
 椅子から立ち上がって彼の隣に行き、一緒にパソコンの画面を見つめた。
「掘り出し物があるかもしれないから、その限りじゃないんだけどね。ただ、新品を注文すると届くのは先になるな。テイクアウトは申請もしないとならないし、時間はかかるね。早くても来月、六月からかな」
「わかりました。それまでに新しいスイーツも考えてみますね」
「明後日の休み、一緒にショーケース見に行こうか? 何か予定ある?」
「予定はありません。大丈夫です」
「じゃあ決まりだな」
「よろしくお願いします」
 一緒にお出かけ。前はあんなに嬉しかったのに、今はまだちょっとだけつらい、かな。

 職人さんがここを去ってから、一か月以上が経っていた。未だに連絡の無い職人さんに店長が思い切って彼のスマホに電話をしたけれど、解約をしたのか「現在使われておりません」というアナウンスが流れただけだった。職人さん、一体何があったの? 一言だけでも欲しいよ。私も店長も心配でたまらないのに……。
 カプチーノを飲みながら職人さんを思い出すと同時に、雑貨のことが頭に浮かんだ。
「店長すみません。倉庫に入っていいですか?」
「もちろんいいよ。どうした?」
「しまってある雑貨の中身を確かめたいんです。すみません」
 事務所の裏のドアを開けて一旦外に出る。五月と言っても夜風はまだ肌寒く、薄着だと身震いしてしまう。店長が倉庫の鍵を開けて一緒に中へ入ってくれた。
 明かりに照らされた家具がひっそりとそこで職人さんを待ち続けているかのように見える。この一か月の間、ここへ入る度にそう感じていた。職人さん、家具たち皆寂しそうだよ。
 私は床に置いてある、三つの大きな段ボール箱の蓋を全て開け、順番に中を探った。ここにあるのは店内にディスプレイされるのを待っている雑貨たち。一番先にお店に出すものは事務所に置いてある。
「あった!」
 重さのあるそれを、一番奥の段ボールから取り出した。ぐるぐるに巻かれた緩衝材を剥がしていくと、持ち手の付いた美しいガラス製の蓋と、お揃いのガラスのプレートが現れた。
「ケーキドームか」
「はい。職人さんに前に見せてもらったんです」
 販売するタイミングがわからなくて取っておいたんだ。とても可愛い小ぶりのケーキドーム。これもアンティークなんだよね。あまり見たことの無い形をしている。
「これにケーキ入れるの? 足りなくない?」
「プチカップケーキの見本をここに入れて、窓際のディスプレイの一部に置こうかと思って。外からも目に付くし、入口近くだから入って来たお客さんにもわかりやすいですよね」
「ああ、いいね。前にくるみちゃんの友達も言ってたような気がする」
「そうなんです。すっかり忘れてたんですけど、メモを読み直して思い出しました。ショーケースが届くまでプチカップケーキだけでも見てもらえたらいいかなって」
 これなら可愛いし、汚れないし、蓋部分が綺麗な透明のガラスだから中身が良く見えていい。職人さんのご両親には申し訳ないけど、備品として使わせていただこう。プチカップケーキの新作を考えるのが楽しみになってきた。
 ふと顔を上げると、店長がすぐ隣にしゃがんでいた。夜の倉庫の中で二人きりなんて初めてかも。意識した途端に顔が熱くなった。
 立ち上がって段ボールの蓋を閉める。傍に置いたケーキドームを持ち上げた。
「これで終わりです。出ましょうか」
 わざと明るく言って誤魔化した。顔赤くなったの、悟られてないよね? 立ち上がった彼は私に手を差し出した。
「持つよ」
「大丈夫です」
「いいから」
 大きな手が包み込むように、私の手ごとケーキドームを持ち上げた。反応した胸がきゅんと痛くなる。
「すみません……」
 慌ててそこから手を放した。何でもない顔をしていたいのに、触れてしまうのだけはまだ慣れないよ。
 こんな時はいつも職人さんの言葉を思い出す。店長と二人で椅子カフェ堂を守っていくには、もっともっとしっかりしないと。動揺してる場合じゃない。いつか職人さんが戻って来た時に、よくやったな、って言ってもらえるように頑張ろう。……ほっぺつねられるの嫌だし。



 朝の気持ちの良い空気を胸に吸い込みながら、勢いよく住谷パンのドアを開けた。
「おはようございます。椅子カフェ堂で〜す」
「いらっしゃい! 今焼けたからね、ちょっと待ってて」
「はい」
 奥からバゲットを持って来た住谷パンのおじさんが、一、二、とバゲットを数えた。
「今日から本数戻していいんだったね?」
「ええ。すみません、お手間取らせて」
「景気がいいのはいいことじゃないか。うちも助かるしな」
 わははと豪快に笑ったおじさんからバゲットを受け取り、釣られて私も笑った。このおじさんの笑顔は元気を分けてくれる。気持ちが沈んでても何か笑っちゃうんだよね。私もお客さんにこういう表情でいられればいいな。
「明日は定休日だっけ?」
「はい。そうです」
「これオマケ。店終わってから、店長とゆっくり食べな。今日は特別美味しく焼けたから」
 小さな紙袋に焼きたての丸いデニッシュを二つ、ザザッと入れてくれた。
「わあ、ありがとうございます!」
「こっちこそありがとね〜!」

 住谷パンを出て、通りを歩きながら五月晴れの空を仰ぐ。真っ青な空に白い雲が三つ浮かんでいた。風は爽やかで、ざわめく樹々から緑の匂いが通り過ぎていく。
 気持ちいいな。ふと立ち止まり、手にしているバゲットとブラックチェリーのデニッシュが入った紙袋を見つめた。おじさんに言われた通り、お店が終わったら店長と二人で食べようかな。明日は一緒にショーケースを見に行くんだっけ。
 この一か月と少し、椅子カフェ堂で出来る限りのことをしようと、店長と二人で毎日こつこつ働いた。職人さんがいなくなった頃、一時的に激減していたお客さんはだいぶ戻ってきて、忙しいけれど充実した日々を送っている。今度、前よりも小さい記事だけど、また雑誌に掲載されることが決まった。
 これで、いいんだよね。
 日々、仕事やお客さんの話をして、意見を交換したり、お互いの仕込みに集中して、少しずつ二人の関係は落ち着いてきた。最初は合わなかった視線も自然に合うようになったし、笑ったり冗談を言えるまでになった。
 あの夜のことは何もなかったかのように、お互い自然に振る舞っている。そのことが時々たまらなく寂しく感じたけれど、これが二人にとって最善の関係なのだと自分に言い聞かせて過ごしていた。
 たまに彼の何かを言いたげな視線が気になったけれど、私は敢えてそこに触れないようにしていた。
 その内きっと、この胸の痛みもなくなっていくよね?
 目の前にある空のように、懐かしい思い出みたいな美しいものに……変わっていくんだよね?

 椅子カフェ堂に着き、静かにドアを開けた。柔らかな光で満ちている、その場所に目を瞠った。心臓が大きくどきんと鳴り、そのまま私の体中を駆け巡っていく。
 ホールの奥で、厨房にいるはずの店長と髪の長い女性の後ろ姿があった。肩を震わせる女性は店長の肩に顔を埋めている。
 ……何を、しているの?
 手元から落としそうになったパンの袋を慌てて持ち直した。その音に気付いて振り向いた貴恵さんと、私を見た店長の視線に体が固まる。
「パン、ここに置いておきますね」
 茶色の袋を入口近くの雑貨を載せたテーブルに置いた。声も手も震えてる。頭が痛い。
「邪魔してごめんなさい。ちょっと出てきます」
 入って来たばかりのドアを開けて、外に飛び出した。

 早くここを、離れたい。
 一刻も早く、ここを。