会館の外では三月初旬の穏やかな春の陽だまりが、そこに集う人々を優しく温めていた。
「くるみ、俺らはこれで帰るぞ」
「はい」
 職人さんと二人、駅へ向かう送迎バスに乗り込んだ。
 バスに揺られながら外の景色に目をやり、さっきまでの彼のことを思い出す。
 告別式の会場で黒いスーツと黒いネクタイに身を包んだ店長は、親族の席から私たちの姿を見るとすぐにその場でお辞儀をした。私は胸が締め付けられる思いで、職人さんと一緒に祭壇の前に進み、お焼香をした。
 店長のおばあさんは肺炎を拗らせ、入院してから二週間であっという間にこの世を去った。椅子カフェ堂に来た時の、公志朗さん、と言ったおばあさんの声が未だに忘れられない。
 駅に到着するまで私と職人さんは黙ったまま、ただ窓の外を見つめていた。



「ただいま帰りました! 店長、今日のパンは特別美味しいんだそうですよ」
「くるみちゃん、お帰り〜。特別特別って、何年前から言ってんだよ、住谷のおっさんは」
「ここ最近で一番だそうです」
 そうなの? と笑った店長にバゲットが数本入った袋を渡す。朝の陽射しが窓とロールスクリーンの間からホールに入り込み、柔らかな光を床に落としていた。店内に飾られた春のお花が店内に明るさを添えている。
「それは?」
 私の手にある、バゲットが一本だけ入った袋を彼が指差した。
「どうしても我慢できなくて自分の分も買って来ちゃったんです。食べてもいいですか?」
「え、今?」
「焼き立てをひとくちだけ食べたいんです。今までずーっと何か月も我慢していたんですけど、もう耐え切れなくて」
「何だよ〜。言ってくれれば、買って来たやつ食べても良かったのに」
「それはお客さんの分だから駄目です。じゃあ、失礼していただきま、あ!」
 私が口を開けたと同時に、バゲットを私の手ごと掴んで自分に向けた店長が、ぱくっとひとくち齧ってしまった。
「うまー。はじっこマジうまー」
「ひどい店長。そこ楽しみにしてたのに……!」
「まあまあ、反対側があるじゃん。ほら」
 もぐもぐと口を動かしながら、店長はバゲットをひっくり返して端っこを私に向けた。
「もう……こっちは駄目ですからね」
 何か、食べさせてもらってるみたいで恥ずかしいな。あーんと、顔を近づけた時、後ろからバゲットを取り上げられた。
「え!」
 振り向くと職人さんがバゲットを手に持ち、齧りついていた。
「うまー。住谷パンのこれの端っこ、超美味いよなー」
 ちょっと! この人、店長より大きく齧ったよ!
「職人さんひどい! そこ今食べようとしてたのに! 返して下さい」
「ほれ。届いたら返す」
 職人さんはバゲットを持つ手を上にあげて左右に振った。手を伸ばしても全然届かない。
「こういうのをパワハラって言うんですよね……くっ」
「は? 俺のパワハラ発動させたら、お前なんかその場で縮んで俺に踏み潰される勢いだぞ?」
「わけわかんないです。返してってば、もう〜」
「くるみちゃん頑張れ」
「店長、笑ってないで取り返して下さい〜!」
「良晴は意地汚いからな〜。取り返すのは難しそうだな」
 そう言いながら店長は職人さんの腕を捕まえてバゲットを取り返してくれた。
 店長少し、痩せたみたい。何となくまだ無理をしてるのがわかる。
 告別式から一週間。私と職人さんは……敢えて亡くなったおばあさんの話題は出さずに店長と普段通りに接していた。少しずつでいいから、彼の傷が癒されて欲しい。

 椅子カフェ堂の来客数は順調で、雑誌掲載後に増えたお客さんが減ることはなかった。お昼の忙しい時間だけ職人さんに手伝ってもらい、あとは店長と二人でお店を回していく。お互いこの状態に慣れてきたのか、前よりもずっと余裕ができていた。明日は土曜だから昼間はもっと混むかもしれない。
 一日の終わり、閉店間近のお店のドアが勢いよく開いた。
「永志くん、いる!?」
 貴恵さんが血相を変えて飛び込んできた。
「いらっしゃいませ。店長は今厨房ですよ」
 最後のお客さんのレジを受けていた私に頷いた貴恵さんは、お店の奥に入って行った。何があったんだろう。
 お客さんを送り出し、お店のドアを閉めた。
 ホールの奥で店長が貴恵さんと話していた。興奮した彼女の声が響き渡る。
「メニュー見てよ。同じでしょう?」
「貴恵、そこ座ろう。ゆっくり聞くから」
「わかった」
 貴恵さんが席に座り、店長はテーブルを挟んだ向かいの席の椅子を引きながら、私を振り向いた。
「くるみちゃん、レジ締めは後でいいから良晴呼んできてくれる? くるみちゃんも一緒に話ししよう」
「はい」

 職人さんを呼びに行き、店長と貴恵さんが座るテーブルに急いだ。私は貴恵さんの隣、職人さんは店長の隣に座る。
「これ見て」
 貴恵さんが一枚のチラシをテーブルに載せた。
「カフェ・マーガレテ?」
「近いな。個人店?」
 私のあとにチラシを覗いた職人さんが、簡略化された地図を見た。椅子カフェ堂よりも駅にずっと近い、人通りの多い場所。
「チェーン店で、そこが第一号らしいの。それでね、メニューがこの店と同じなのよ。あなたも見て、ここ」
 貴恵さんに促されてデザートのメニューを見る。写真と説明書きを見て背中がぞっとした。
「チーズケーキとデコレーションカップ、ケーキ……」
 テイクアウトもできます。と書かれている。映っているものは以前ここで出していたフレーバーのカップケーキとそっくりだった。……何、これ。
「良晴も見てよ、これ。家具と雑貨スペースだって。それもすごく広いのよ。値段もリーズナブルだし」
「ふん。家具は真似しようったって簡単に出来るもんじゃないんだよ。この値段じゃ雑貨だってレプリカだろ、どうせ」
 職人さんの言う通り、きっとレプリカだと思う。でも、ヴィンテージに拘らずに似たようなものを安い値段で欲しがる人は、たくさんいるはず。
 貴恵さんがバッグからタブレットを出して、カフェ・マーガレテのホームページを検索した。明るく広い店内の様子が映っている。家具と雑貨置き場。そっくりな食事メニューは椅子カフェ堂より値段が押さえられていた。

 これはどういうことなんだろう。ただの偶然なの? 頭の中に様々な疑問が浮かんだ時、答えるように店長が呟いた。
「……これ、親父の経営する店だ」
 一斉に皆が顔を上げた。
「ARIS-AWAって下に小さく書いてあるだろ。ファミレスと系列が同じ」
「そんな……! どうして」
 思わず叫んでいた。ファミレスと居酒屋のチェーン店を営むお父さんが、椅子カフェ堂のようなカフェを? どうしてそんな必要があるの?
「ここが雑誌に掲載されたのを知ったのかもしれない。いや、ホームページにも載せてるし、宣伝もしてるんだから当然知ってるよな」
 店長は両手を合わせて固く握りしめた。
「どういうことなの?」
「詳しくは言えないけど、親父はこの店を潰したがってるんだよ。最近順調なのを知って焦ったんだろうな。似せた店を近くに作って、椅子カフェ堂に人が入らないようにする。それで自分の店が繁盛すれば損はない。……ばーさんが死んで遠慮が無くなったな」
 貴恵さんに答えた彼は、チラシを手に取り自嘲するように笑った。
「だから明日オープンだってのに、今まで何の宣伝もしてこなかったのか。永志、お前知らなかったんだろ?」
 職人さんが店長の手からチラシを奪った。
「いや、飲食店が出来るのは知ってたんだ。商店街の集まりでも話が出たし。でもまさか親父の店だったとはね」
 頭を抱えた店長は大きく溜息を吐いた。
「ねえ、私明日午後出勤だから偵察に行ってあげようか?」
 今度は貴恵さんが職人さんからチラシを取り上げた。
「まずは敵がどうなのかを知らないと戦えないじゃない。敵なんて言ったら失礼かもしれないけど、あちらさんだって、ここを偵察してこんなにそっくりにしたんでしょ? だったらこっちが行ったって構わないわよね」
 どんな人が偵察に来てたんだろう。来たとしてもそんなのわからない。それに直接ここに来なくても、店長が言ったようにホームページでメニューを確認することはできるし、家具も雑貨も見ることができる……。
「だな。行ってもらえば?」
 同意をした職人さんが店長を見た。
「わかった。頼むよ貴恵」
「うん。任せておいて! 何をチェックしてくればいい?」
「そうだな……」

 皆の会話が遠くに聞こえる。
 今まで、お店のためになることを一生懸命やっていれば、それでいいんだと思ってた。話題になるように、お客さんに来てもらえるように、いつか雑誌に大きく取り上げてもらえるように。
 でも、こんなふうにされてしまったら、どうすればいいの? これから何をしても、どうやっても真似をされてしまいそうで、それが私にはとてつもなく……怖かった。