雑誌に掲載されてから二週間。
 椅子カフェ堂の来客数は、いつの間にかリニューアル後と変わらないくらいまでに戻っていた。記事は小さくてもこれだけ効果があるという全国誌の影響の大きさを、三人で実感していた。

「おはようございます! 椅子カフェ堂でーす」
「ああ、いらっしゃい! ちょっと待ってね。もう焼けてるから」
 椅子カフェ堂から三分ほどの場所に昔ながらのベーカリー「住谷パン」がある。朝七時から営業している店内に焼きたてのパンが次々並べられていく。
「はい。お待たせね〜」
 頼んでおいた数本の長いバケットを、茶色の紙袋に入れて手渡してくれる。香ばしい匂いが私を誘った。このままひとくち齧りたいのを我慢するのが大変。
「ありがとうございます。まだあったかい」
「今日は特別美味しく焼いといたからね」
 毎朝同じセリフを言うおじさんと笑顔を交わし、代金と共にチラシの束を渡した。
「新しいチラシなんです。また置いてもらえると助かるんですが……」
「はいよ。何か変わったの?」
「新メニュー追加のお知らせと割引券が付いてます」
「頑張るねえ。この前雑誌見たよ。お客さん入るといいね」
「ありがとうございます。じゃあまた明日、お願いします」
「こっちこそ、いつもありがとね〜」
 バゲットを抱えてお店を出ると、朝の冷たい空気が私の頬を撫でた。
 住谷パンさんとは有澤食堂の頃からのお付き合いで、毎日食事メニューに出している。外はパリっとして中はもちもちのバゲットは評判が良く、お客さんから住谷パンのことを訊かれるほどだった。
 住谷パンだけでなく、商店街の八百屋さん、お肉屋さん、お魚屋さんとも同じようにお付き合いがあり、どこも椅子カフェ堂のチラシを置いてもらっている。店長のおじいさん、おばあさんが築いてきた交流を、彼は今も絶やすことのないよう大切に続けていた。
 続けるのって簡単そうに見えて一番大変なこと。それは本当に地味で目立たなくて、時に面倒とも思えることなんだけど、毎日毎日の積み重ねがお客さんや周りとの信頼を作っていくのを最近感じるから、絶対におざなりには出来ない。

 来客数が増えた為、最近のランチ時は職人さんにレジやホールを手伝ってもらっていた。
 ホールの中はお客さんで埋め尽くされ、外に人が並び始めた。目が回るような忙しさの中、お客さんのレジを終えた私のところに、職人さんが焦った顔をして寄って来た。
「くるみ、俺オーダーミスったかも」
「え!」
「永志のとこ行って確認してきてくれよ。怒られる」
「職人さんいつもあんなに威張ってるクセに、店長が怖いんですか?」
「永志のやつ普段怒らない分、怒ると超怖いんだよ。俺の十倍くらい」
「信じられないですけど。って何ミスったんですか? すぐ確認してきますから教えてください」
「五番テーブル。グラタンとカルボナーラなんだけど、その前に受けた三番テーブルとごっちゃになって、和食とグラタンでオーダー入れた気がする」
「五番テーブルさんはそれで間違ってないんですね?」
「今確認した」
 急いで厨房に飛び込み、オーダー票を確認すると、職人さんが怖れていた通りに間違っていた。
「店長すみません! 五番テーブル、オーダーミスです。和食じゃなくてカルボナーラでした」
「え! ってことは……グラタンとカルボナーラ?」
「そうなります」
 マジか〜、と言った店長は急いでカルボナーラの用意をし始めた。
「珍しいね、くるみちゃん。オーダーミス」
「いえあの、職人さんが……あ」
 ヤバい、つい言っちゃった。職人さんごめーん。
「なーんだよ、あいつ自分で来いよなぁ? くるみちゃん犠牲にして、ったく」
 店長は別の料理の盛り付けをしながら呆れた声を出した。それにしても素早いなぁ。私はオーダー票を確認しながら次のお皿を準備して、店長が使い易いように並べていった。
「良晴にあとで覚えてろって言っといて」
「わかりました」
 にっと笑った店長から出来上がった料理を受け取り、私も同じように笑った。職人さんどんな顔するかな。
 働き始めてから半年。厨房の中で店長とだいぶ息が合うようになった、なんて思うのは自惚れかな?


 忙しい一日が終わり、やれやれと一息吐いた時、からりんとドアが開いた。
「こんばんはー」
「また来たよ。お前ほんと暇だな」
 現れた貴恵さんに、しゃがんで家具のチェックをしていた職人さんが言った。
「暇じゃないわよ。ちゃんと仕事帰りなんだし、毎日じゃないんだからいいでしょ」
 彼女はコートを脱いで当たり前のように席に着いた。この二週間、貴恵さんは椅子カフェ堂に五回は来店していたと思う。営業中の時もあれば、こうして閉店してから訪れることもあった。
「くるみちゃん、割引券俺が預かったままだった。計算に入れてね」
「わかりました」
 レジを締めている私の傍に来た店長に、貴恵さんが離れたところから言った。
「永志くん、お客さん増えたんでしょ? 彼女だけじゃ足りないだろうから募集かければ?」
「いや、今はまだ安易に増やせないよ。雑誌に掲載されたからっていう一時的なものかもしれないし」
「募集するんだったら、私会社辞めてここで働いてあげるよ〜」
 笑った貴恵さんはブランドもののバッグからスマホと雑誌を出した。
「はあ? お前なんか使えねーよ。大体なんだよ、あげる、ってその上から目線」
 立ち上がった職人さんが、つかつかと歩いて彼女の席に向かった。
「どういう意味よ」
「そんなチャラチャラした奴に料理運んでほしくないね。香水臭いわ髪は長いわ、何だよその爪。鬱陶しいから切れ」
「冗談に決まってるでしょ……! 良晴ってほんと酷いんだから。ねー永志くん」
「良晴の口の悪いのは認めるけど、貴恵はここで働けない、には同意」
 店長も職人さんと同じように彼女の傍へ歩いて行った。
「どうしてよ?」
「朝は早いし、給料安いし、いつもそんなに綺麗にしてられないよ?」
「綺麗って思ってくれるんだ? 永志くん」
 店長に向かって彼女が上目づかいで首を傾げた。美人にそんなことされたら、それだけで男の人は落ちちゃいそう。皆の会話が気になって、なかなかレジ締めが進まない。
「そりゃまあ、綺麗なんじゃないの」
「やった! 永志くんありがと!」
 その声と同時に、私は数えていた小銭を落としてしまった。しゃがんで慌てて拾う。
「永志くん、これ見て。ね? こういうのどうかな? さっき見て思ったんだけど」
 雑誌をめくる音が聴こえる。へえ、と店長が答え、職人さんが言葉を挟んている。私はなかなか顔を上げられない。
 なんかもう苦しくてたまらない。
 店長は当然のことを言っただけで、私と比べている訳じゃない。私はただの従業員で綺麗に着飾る必要がないのは当たり前。でも貴恵さんを綺麗と言った店長の言葉に落ち込んでいる。
 どうしてこんなに自信がなくなってしまうんだろう。彼女が来る日はそれだけで、自分がちっぽけで嫌な人間に思えてしまう。

 あーもうやめやめ! こんな所でうじうじ悩んでても仕方ない! 私は拾った小銭を握りしめて勢いよく立ち上がった。
「店長、レジ締め終わりました。確認お願いします!」
「お疲れ、ありがとな。今見るよ」
「私、仕込みしてきますね!」
「うん」
 明日から期間限定でプチカップケーキの種類を増やすんだ。バレンタインデーにちなんでビターチョコとホワイトチョコの二種類。生クリームもチョコをたっぷり混ぜ込んで、ハートのマシュマロフォンダントを飾る予定。お客さんに喜んでもらう為に余計なことは考えず、今はとにかく集中しよう。
 そうだよ、私にはスイーツを作るという立派な仕事があるんだから。お客さんから褒められた言葉や、美味しそうに食べてくれた笑顔を思い出して、気持ちを奮い立たせよう。

 チーズケーキを焼きながらマシュマロフォンダントを作っていると、こちらの厨房に店長が現れた。
「くるみちゃん、ちょっといい?」
「はい」
「あのさ、明後日の休み……暇?」
「はい、暇です」
 店長、何だかいつもと感じが違う。言いにくいことなのかな。
 彼は溜息を吐いたあと首の後ろに手を当てながら、私から視線を外して言った。
「久しぶりにまた食べに行かない? メシでも」
「え」
「今度は俺が美味しい店、教えるからさ」
「い、行きます! 行きた……」
 行きたいと言おうとして言葉が途切れた。もしかして職人さんと貴恵さんも一緒かもしれない。ちらりと彼の向こう側にあるホールの方を見る。もちろん一緒でもいいんだけど、私が行くことを知ったら貴恵さんが嫌がりそう。行きたいなんて安易に答えてもいいのかな。
 答えに迷って顔を伏せると、ふいに肩を優しく抱かれた。
「俺とくるみちゃんの二人なんだけど、いい?」
「あ……」
 かがんで私に囁いた彼の声に胸がきゅーんとして、思わず声が漏れてしまった。近すぎます店長……。私顔真っ赤だよ多分。急にどうしたの? 私の左肩に置かれた彼の手の温かさが伝わって心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「も、もちろん大丈夫です」
 二人でって、言ってくれた。
「良晴と貴恵には内緒ね」
 呟いた彼が私から離れ、自分の厨房に戻って仕込みの準備を始めた。

 まだドキドキしてる。やっぱり店長ってよくわからないよ。
 内緒、という言葉の甘い響きが、私の胸いっぱいに広がっていった。