私のポジティブシンキング、どこ行った。
 期待で膨らんだ私の胸の内が一瞬で萎んでいくのがわかる。これは……想像してたのと少し、というよりも、ずい分違ったみたい。

「おーい良晴(よしはる)、ただいまー。あ、そこ座ってくれる? ちょっと待っててね」
「はい」
 店長はそのまま店の奥に行ってしまった。
 素敵なカフェミュージックが流れている。エアコンの効きもちょうど良くてホッとした。けど。
 何だろう、この違和感は。店内を見れば見るほど、ガッカリ感が増してくる。席について鞄を置き、深呼吸した。
 ずっと左にある壁の隅に達磨の乗った本棚があって、ずらっと漫画が並んでる。昭和な少年……じゃなくて聞いたことある青年漫画だ。全巻揃ってそう。いや、別にいいの。漫画が置いてあるのが悪いわけじゃない。私もあれば読むんだから。でも、今流行りのレトロ喫茶っていう風情には感じられないんだよなぁ。達磨の横に招き猫とキラキラ光ってるスカイツリーの置物あるし。いや、私も個々には好きなんだけどね。
 壁は真っ白で綺麗だけど、商店街の名前が書いてある大きなカレンダーがどーんと貼ってあって、横でよく見るキャラものの時計が時を刻んでる。
 私が座っている椅子と目の前にあるテーブルは、丁寧に作り込まれた木製で、厚い板と綺麗な木目が美しくて、すごくいい。いいのに……なんでカーテンみたいな柄のビニールクロスがかかってるのおお? これなんかもう、わざと狙ってるとしか思えないよ。すごくもったいない。
 柱も床も使い込まれた飴色になってるし、天井も普通のところより少し高めで、雰囲気があっていいのに。
 って、これ私の悪い癖なんだ。カフェに入ると皆素敵で、つい隅から隅までチェックしてしまうんだよね。ここは別の意味でチェックしてしまったけど、もうやめよう。拘りがあってこうしてるんだろうし。
 店長どうしたんだろう。誘われてお店に入っちゃったけど、まさか変なことに勧誘されたりしないよね。少し怖くなってきた。……帰ろうかな。

 あれこれと考えていると、長いカフェエプロンを着けた店長がトレーを持って現れ、乗せていたカップを私の前と向かいの席に置いた。
「はい。良かったらどうぞ」
 私はカップの中を覗いた。茶色の液体の上で、白いクリームが見事なコントラストを描いている。これは……当たりだ。
「カプチーノですか?」
 店内の装飾のことも、勧誘されるんじゃないか、なんて疑っていた気持ちも、一瞬で全て吹き飛んでしまった。エスプレッソの香りに私の胸が躍る。多くはないけれど、今までの経験から言って、この美しさに味の外れはなかったはず。
「そう。嫌い?」
「いいえ。大、大好きです。いいんですか?」
「もちろんどうぞ」
 早く飲みたい! 逸る気持ちを抑えて、いただきますの挨拶をし、砂糖の入れ物に手を伸ばした。すると正面に座った彼が横に首を振った。
「砂糖入れなくても甘いよ」
 そんなことってあるの? 疑問に思いながらも言われた通りにお砂糖は入れず、カップの持ち手を握った。口当たりの良い陶器に唇を押し付けて、口の中へそっと流し入れる。
 なめらかな感触のミルクフォームはミルキーで、絶妙な濃度のエスプレッソと混じり合って……舌がとろけてしまいそう。
「ほんとに甘い……嘘みたい」
「でしょ? それ牛乳の甘さなんだよ」
 どうしよう。想像していた以上だよ。こんなの飲んだことない。
「感動しました。すごく美味しいです。全部飲むのが惜しいくらい」
「そ、そう? まあほら、マシーンが作ってくれてるお陰だから」
 店長は照れくさそうに笑ってみせた。
 エスプレッソマシーンを使っても、そのお店によって味は変わる。今までいろんなお店で口にしてきたから、少しはわかる。専門店もいくつか訪れたことがあるけれど、こんなに美味しく感じたのは初めてかもしれない。これを飲んだら、誰でもきっと忘れられない。
 このお店って、もしかしたら相当な有名店なのかもしれない。知る人ぞ知る、みたいな。

 お店の奥で、ドアが閉まる音がした。そちらから足音が近付いて、男の人が現れた。もしかしてこの人が、さっき呼ばれてた人?
「……誰?」
 眉根を寄せたその人が私の顔を見たあと、店長に問いかけた。
 この人も背が高いなぁ。短めの黒髪に切れ長の目。柔らかい印象の店長とは正反対な感じだけど、結構かっこいい、と思う。
「おう、面接中だよ」
「つーかお前さ、出てく時は言えよ。不用心だろ。俺、料理作れないんだし、どうやって客に対応したらいいんだよ」
「言ったよ? 聞こえてなかったみたいだから出ちゃったけどさ。まあ、いいんだよ。どうせこの時間は誰も来ないんだし」
 言い捨てた店長がひとつ咳払いをした。背筋を伸ばして私を見る。
「じゃあ改めて。俺はここの店長兼オーナーの有澤永志(ありさわえいじ)と言います」
「駒田(こまだ)、です」
 お互い座ったままで頭を下げる。
「彼は稲本良晴(いなもとよしはる)。家具職人」
「……どーも」
 隣のテーブルに座った人は、店長の言葉を受けてダルそうに頭を下げた。
「家具職人さん、ですか」
「このテーブルも、君が座ってる椅子も、全部彼の手作りだよ。家具も一緒に売ってるんだ」
「え! すごい……。あ、だから『椅子カフェ堂』?」
「うん、そう」
 嬉しそうに頷いた店長が、自分のカップに口を付けた。

 どうしよう、かな。
 さっきはここで働いてみるのもいいかな、なんて思ったけど、店内の装飾見てガッカリして気分が下がっちゃったし……。でもそのあとこうして美味しいカプチーノ飲んで感動して、結局どうしたいのか、自分でもよくわからなくなってしまった。
「その恰好って、もしかして就活中?」
「……そうです。中途ですけど」
 私の気持ちを読み取られた気がして、声が小さくなった。
「じゃあ、ここで働くのは無理かー。俺はいいと思ったんだけどなあ」
「あの、本気でおっしゃってるんですか?」
「ん?」
「私のこと採用って」
「うん、嘘は言わないよ。ここを知ってもらうために、カプチーノを飲んでもらったんだし」
「どうしてなんですか? 私、履歴書も見せてないし、このお店に来るのも初めてで、」
「チーズケーキって言ったから」
 急に真剣な声を出されて、思わず固まってしまう。
「今までその答えを一発で言ってくれる人はいなかったからな〜。だから惜しいよ、ほんと」
「チーズケーキが作れれば採用、っていうことですか?」
「それもあるけど。でも、それだけじゃないな」
「?」
「まあそれは置いといて」
 店長はカップに残っていたカプチーノを飲み干した。
「うちの店の前で貼り紙見て迷ってたでしょ? その迷いが少しでも残ってるなら考えてみてよ。俺はできれば来てほしい。ああ、そうだ。店の資料渡すね。もう一回、ちょっと待ってて」
 飲み終わったカップを持って立ち上がり、再び店長は行ってしまった。


 視線を感じて顔を上げると、隣のテーブルに座っていた家具職人さんが肘をついて私を見ていた。
「あんたさあ、本当にチーズケーキ、作れんの?」
 あんたって。それにしても店長といい、この人といい、どうしてそんなにチーズケーキに拘るの?
「一応、作れます」
 職人さんは、ふんと鼻で笑って足を組んだ。
「永志はあんたのこと妙に気に入ってるみたいだけど、俺は全く期待してないから」
「……どういうことですか?」
 なんかさっきから、すごいやな感じなんですけど、この人。
「あんたで六人目かな。四月にオープンしてから、ここで働くことになった人」
「そんなにたくさんの人がここで働いてるんですか?」
 この広さだと、どう見ても店長入れて二、三人で十分だと思うのに。実はやっぱり有名店で、人手が足りないから募集をかけてるんだろうか。でもそのわりには聞いたことないんだよね、この店名。
 私が感心していると、職人さんが呆れた声を出した。
「何言ってんの?」
「え?」
「全員辞めたんだよ。自分から」