スマホのアラームを止めてベッドの上で寝返りを打つと、視線の先には店長から貰った綺麗なお花。
 くすんだピンクとショッキングピンクのダリア、淡い桃色のふわふわしたケイトウ、ピンクベージュのアンティークローズ。そこにセピア色の秋色紫陽花、グリーンの鮮やかな葉と小さな実が加わって、ピンクのブーケは秋のシックな雰囲気に纏められていた。何度見ても大人っぽくて素敵。
 一昨日家に持ち帰ってから、この花を眺める度に彼のことを思い出した。こんな大きな花束、誰にももらったことないよ。枕元にはお出かけで買ってもらったサシェがあるし、キッチンに行けば冷蔵庫の中に店長から受け取ったケーキがあるし。幸せなんだけど、溜息が出てしまう。

 休日は仕込みができないため、次の日は朝早く出勤しなければならない。家を六時に出て椅子カフェ堂に到着するのが六時半、の予定。
「起きよ、っと」
 ベッドから起き上がった瞬間、着信音が鳴った。画面には店長の名前。勢いよく布団の上からひったくるようにスマホを掴んだ。
「はい! おはようございます!」
 何どうしたの!? なんかあった!?
『くるみちゃん? 有澤ですけど、ごめん朝早く』
「いえ、どうしたんですか? 何かありました?」
『うん。悪いんだけど、今日は店休みにすることにした。ちょっと具合悪くてさ。昨日も一日寝てだいぶ良くはなったんだけど、まだちょっと』
「大丈夫ですか!?」
『大丈夫。明日は営業するつもりだよ。それで、もしくるみちゃんが明日の仕込みを今日したいんだったら、今日好きな時間に来ていいからさ。明日の朝でいいなら、もちろんそれでもいいし』
 なんだか息がつらそう。昨日からずっと一人でいるんだろうか。
「職人さんは来ますか?」
『いや、ちょうどいいって仕入れに行ったから、今日は来ないと思う』
「わかりました。じゃあお言葉に甘えて私、仕込みに行きます」
『うん。俺は上にいるから厨房好きなように使って。悪いね』
「そちらに行くついでに、買ってきてほしいものとかありますか? スポーツドリンクとか、おでこに貼る冷却シートとか。お腹は空いてませんか?」
『じゃあ、お願いしようかな。飲みもんとおにぎりかなんか。お金あとで払うから』
「わかりました。もう少ししたら行きますね」


 買い物に寄って、十時半に椅子カフェ堂に着いた。
 ドアに「誠に申し訳ございませんが、本日臨時休業とさせていただきます。店長 有澤永志」と手書きで貼り紙がしてある。
 店長の書いた文字を見て涙ぐんでしまった。定休日以外はいつもお店が時間通りに開いていて、外も綺麗に掃除されて、中に入ると仕込みがほとんど終わっている朝の風景は、店長が必死に守って来たからこそ、そこに当たり前のようにあったんだ。こうなってみて初めて、そのありがたみがわかるなんて……。
 鍵を差し入れて開け、ドアノブを回す。そっと扉を押して中へ入った。
 静まり返った店内。いつものいい匂いがしない。
 厨房に入り、買ってきた卵としらすとネギを冷蔵庫に入れさせてもらった。家から持って来た一人用の土鍋とお米と出汁をバッグから取り出す。
 ぴかぴかに磨かれたシンクと調理台、切れ味の鋭いしっかりと砥がれた包丁、清潔なお玉。彼の大事な道具を使わせてもらうのは気が引けたけど、それでも作りたい気持ちの方が勝っていた。

 出来上がりの味を確認して、店長に電話を入れた。
『……はい』
 掠れた声。寝てたのかもしれない。
「くるみです。起こしてごめんなさい」
『いや寝てないよ。どうした?』
「これから上に行ってもいいですか? 飲み物買ってきました」
『え! いやあの、ありがとう。でもここ、すげーきたないからさ』
「もし良かったら、お粥食べませんか? 厨房お借りして作ったので」
『くるみちゃん……』
「お部屋にはあがりません。店長、階段下りるのはつらいかなと思って」
 図々しいかな。でもどうしても心配なんだもん。
『わかった。下のドアの鍵開いてるから、入ってすぐの階段上がって』
「はい」
 緊張しながら通話を終了させた。
 トレーにお粥の一式を載せ、大きなペットボトルは買ってきたビニール袋に入れて腕に下げ、レジの後ろを通って進んだ。事務所の隣にある開けたことのないドアノブを回す。い、行くぞ。一度深呼吸してから中に入ると、椅子カフェ堂とは違う知らない匂いがした。
 店長が言った通り、すぐ階段がある。階段下に洗濯機が置いてあり、多分トイレやお風呂がその奥にありそうな引き戸が見えた。
 見上げると小さな窓から自然光が入っていて階段は明るかった。上りきった踊り場横に、木製の引き戸がある。この向こうに店長がいるんだよね。
 トントンと軽く戸を叩く。
「くるみです。ここに置いておきますね」
 言い終わると同時に引き戸がガラリと開いた。
「きゃ!」
 目の前に店長がいる。パ、パジャマだ……!
「ありがとう。ごめん、こんなカッコで」
 って、恥ずかしがってる場合じゃないよ。なんか店長すごく顔色が悪くない?
「あの」
「良かったらあがって、汚いけど」
 彼はおかゆを載せたトレーを私から受け取ろうとした。
「私がそっちまで持っていきます。店長寝てて下さい」
「……大丈夫だよ」
「だめです!」
 苦笑した彼は部屋の一番奥にあるベッドまで歩き、横になった。あとをついていきベッドの傍に座る。小さな木製のローテーブルにトレーとペットボトルを置いた。
「お風邪ですか?」
「風邪だったら移しちゃうから、あがらせないよ。情けないけど疲労による発熱だってさ。昨日病院行って点滴入れてもらったから、だいぶ楽になったよ。迷惑かけてごめんな」
「そんなこと」
 店長が無理してるの気付いてて、何も言ってあげられなかった私の責任でもあるのに。
「それ、飲みたいな」
 彼がペットボトルを指差した。
「あ、はい。コップお借りしていいですか?」
「うん。あそこのキッチンにあるよ」

 ベッドは南側の窓際。キッチンは離れているけど、その真向かいに当たる北側に付いている。ここから結構距離あるよ、これ。というか、部屋を区切る壁がどこにもない。柱が何本かと、剥き出しの筋交いが二か所あるだけ。
 床は全部同じ板張り。背の低い本棚が何となく部屋の仕切り代わりになっている。西側は白い引き戸の三間ほどあるクローゼット。東側に大きなサッシ窓。この下がちょうど椅子カフェ堂の入口ドアと大きな窓がある場所だ。お部屋全体が明るくて気持ちがいい。
 こじんまりとしたキッチンでコップを用意し、スポーツドリンクを注いだ。
「残りは冷蔵庫に入れておきますね」
「うん」
 庫内には残り少ないお水のペットボトルが一本。卵が一個。納豆のパックにお漬物が少し。これしか入ってない。横のシンクを覗いても汚れ物がない。まかないくらいしか食べてないんだろうか。普段どうしてるんだろう。
 コップを持って店長の元へ戻る。彼は布団から起き上がり、私からスポーツドリンクを受け取った。
「すごく広いんですね」
「俺一人だから、業者に頼んで壁ぶち抜いてワンルームにしてもらったんだ。夏はいいけど冬は寒いよ」
「さっき店長慌ててましたけど、全然汚くないです」
「急いでそこのクローゼットに全部ぶち込んだんだよ」
 笑った店長はコップを口にした。寝ぐせがついてて、いつもと違う。……こんな時にときめいたら失礼だよ。
「昨日から具合悪かったんですか?」
「一昨日くるみちゃんと別れたあと、皆で飲みに行った時かな。変だと思って、飲まずにすぐ帰ったんだ」
「もしかしてお花を買った時も?」
「いや、あの時は何も感じなかった。くるみちゃん怒らせて、まずいどうしようって、そればっかりで」
 片足を立膝にした彼はそこに腕を乗せた。コットンパジャマの一番上のボタンが外れて、そこから鎖骨が覗いてる。私は慌てて視線を逸らした。
「なんか焦っちゃって俺。くるみちゃんに嫌われたのかって思ったら、なんかさ」
「嫌ってなんかないです。店長……永志さんのこと一度も嫌いになんてなってないです」
「だったら、いいんだけどさ」
 私の方が嫌われたかと思ったのに。
「ケーキ食べた?」
「はい。家族でいただきました。妹が三つも食べちゃって。お花も、ありがとうございました」
「それなら良かった。くるみちゃん」
「はい?」
「まだ怒ってる?」
 こういう時の店長って、子どもみたいな顔をする。
「ううん。怒ってないです」
「ほんとに?」
 こんな顔されて本気で怒れる人がいたら会ってみたいよ。
「ほんとに」
「ほんとにほんとに?」
「ほんとにほんとにほんとーに怒ってないです」
 何だかおかしくて二人で顔を見合わせて笑った。さっきよりも、ずいぶん顔色がいいみたい。

「おかゆ、食べられますか?」
「うん。なんかやっと腹減って来たな。くるみちゃんの顔見たら元気出た」
「良かったです」
 土鍋からお椀にお粥をよそう。食べにくいかと思って、お箸ではなくスプーンを添えた。
「あーん。なんてな」
 また無邪気な顔してそういうことを言う! でも病人だし、そうしてあげた方がいいのかな。……よし。
「口、あけてください」
「え」
 自分で言っておいて何で赤くなるのー? お出かけした時は自分からそうしたクセに。妙に恥ずかしいから素早くスプーンでお粥を掬って差し出した。
「は、早くしてください」
 スプーンを持つ手がぷるぷるしてしまう。私の言葉に反応した彼が身を乗り出してきた。ち、近いなぁ。ぱくっと口に入れた彼が口を押えた。
「だあっちっち!」
「え! ごめんなさい! 熱かったですか!?」
「へ、平気。意外と冷めないよね土鍋って。小さくても」
 冷ましてあげるの忘れたー! これじゃお約束のコントだよ……! 今度は慎重に冷ましてからスプーンを差し出した。
「料理が上手な永志さんに、こういうのどうかって思ったんですけど」
「美味しいよ。こういう味、久しぶりだな」
 良かった。結局ふたくち食べさせてあげて、そのあとは店長が自分で食べた。あー緊張した。

 さっきから気になっていることがある。改めてぐるりと辺りを見回した。
「このテーブルとあそこにある椅子って、もしかして」
「うん。良晴が作ったやつ。そこの低い本棚もそう。俺が良晴の客、第一号なんだ」
「そうなんですか」
 羨ましいな。私には間に入れない寂しさがあるけど、何だか心が温まった。大切に使ってるんだ。
 薬を飲んだ店長があくびをした。
「寝て下さい。私片付けちゃいますから」
「昨夜、体中痛くてあんま眠れなかったんだ。くるみちゃんが来てくれたから安心したのかもな」
「洗い物して下に行きますね。お邪魔しました」
「ありがとう。助かったよ」
 横になった彼に布団をきちんとかけてあげ、食べ終わった食器をトレーに載せる。
 キッチンに行き、シンク前にある小窓を少しだけ開けた。駐車場側だから広々していて石畳の通りまで見える。椅子カフェ堂から見る景色と少し違って楽しい。
 洗い物を終えてトレーを持ち、店長のいるベッドまで様子を見に忍び足で歩いて行く。コップの中身は全部無くなっていた。食べて飲めたんなら、少しは安心かな。
「くるみちゃん……」
「え?」
 店長の瞼は閉じたまま。寝言だよね。そっとしておいた方がよさそう。
「……好きだよ」
「!!」
 え? 何? 今好きって言った? 好きって何が? 落としそうになったトレーを持ち直し、もう一度彼の顔を確認すると、やっぱりすやすやと眠っている。好きって……好きって何が? お粥が好きなの? それとも聞き間違い?
 寝息を聞きながら彼の顔を見つめた。
 店長って何考えてるのか、よくわからないよ。怒らないし、優しいし、嬉しい言葉もたくさん言ってくれるけど、肝心な事は教えてくれない。さっきみたいに笑い合うことはあっても、つらいことは話してくれない。心配かけたくないからなんだろうけど、それがとても寂しい。

 力になりたい。何か抱えているものがあるなら、少しでも軽くしてあげたい。
 椅子カフェ堂の名前を教えてくれたあの時のように、お店のことをもっと話したい。
 それくらいは、伝えてもいいよね。