いつもの時間に事務所で休憩を取っていると、裏口のドアが大きな音を立てて開いた。
「あー疲れた」
 職人さんが額の汗をタオルで拭きながら入って来る。
「お疲れ様です」
「おー。今日のまかない何だった?」
「ロコモコ丼です」
「……なんて? もう一回」
「ハンバーグと目玉焼きが載ってる丼です」
「あーあれね。ハワイっぽいやつね。イケるよねあれ」
 職人さんは冷蔵庫に入ってるペットボトルを取り出して、私の前にドカッと座り、スマホを触った。
 昨日、朝市に行った時から、私の気持ちはずっと沈んだまま。目の前の職人さんを改めて見る。そりゃ職人さんだって好きだよ? いざとなったら助けてくれるし、彼の作る家具は本当に好きだし。でも、違うんだよ。店長を思う気持ちとは全然。

「職人さん、私、店長に誤解されました」
「何を」
 職人さんはスマホから目を離さずに、ペットボトルのお水を口にした。
「私が職人さんを好きだって」
「ぶーーっ!」
 盛大に吹いちゃったよ。そうだよね、私だって意味わかんないもん。
「店長の話だと、職人さんもいい感じなんだそうです。私に対して」
 私の言葉に、今度はげっほげほと、ものすごい勢いでむせて苦しみ始めた。
「職人さん、大丈夫ですか?」
 とうとう椅子から降りて床に四つん這いになっちゃったよ。なんか失礼すぎない? 吐くの? ねえ吐くの?
「ちょ、ほんと大丈夫ですか!?」
 げほげほしながら大きく頷いた職人さんは、しばらくして落ち着いてから顔を上げた。
「……おい、くるみ、これだけは言っておく」
 ぜーぜー言って口元を拭いている。吐かなくて良かったよ、ほんと。
「はい?」
「悪いがお前は俺の好みとは全く違う! 一切ときめく要素がない! 今の内に諦めとけ!」
 またびしっと指をさされたよ。四つん這いのままの姿勢じゃきつそう。
「だから誤解だって言ってるじゃないですか。私にときめく職人さんなんて気持ち悪いですもん。私も職人さんに、ときめいたことないですし。ムカついたことは何度もありますけど」
「あ?」
 こわっ。超睨まれた。
「尊敬はしてますっ!」
「わかってんなら、よろしい」
 立ち上がった職人さんは、作業ズボンの膝を払って、再び椅子に座った。
「何、永志が気にしてんの?」
「気にしてるというか、応援するからって」
「はあ? 勘弁してくれよ」
「私も、それは同意なんですけど……」
 そう思われたことがショックで、あの場では何も言い返せなかった。私が職人さんを好きでも全然かまわないっていう、店長の気持ちが悲しくて。
「まあほっとけ。お前が嫌なら、違うって永志に言えばいいじゃん」
「職人さんは言わないんですか?」
「わざわざ言うのかよ、それ。何で俺が知ってんだ、て話しになるじゃん。第一俺ら、そういう話しないし」
「ずーっと一緒なのに?」
「腐れ縁みたいなもんだしな。お互いのことは滅多に訊かない。女みたいにべっちゃくっちゃ、何から何までしゃべって把握し合ってるってのはないの」
 そういうもんなのかな。確かに二人はあっさりしているというか、仕事のパートナーって感じだけど。

 今日はランチ時が過ぎても比較的お客さんが入っている。
 最近ホームページやSNSで反応をもらうし、少しは名前を知ってもらえてるのかな。近所にあるお店のスタッフさんも、ランチを利用してくれるようになったし。
 またからりんとドアが鳴った。年配の男性がひとり、お店に入って来た。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「ああ」
「あちらのお席にどうぞ」
 顔立ちからして結構歳がいってそうなのに、恰好がとても若々しくて年齢を感じさせない。ジャケットの仕立てが上品で、お値段高そうな感じ。
 男性にお水を出したあと、隣のテーブルに料理を運んだ。
「お待たせしました。カルボナーラです」
「わ、美味しそう〜!」
 女性のお客さん二人が嬉しそうな笑顔になった。でしょ? と私が作ったわけでもないのに得意になってしまう。
 新しいメニューに加わったカルボナーラ。カリカリに焼いた分厚いベーコンと、粗挽きの黒胡椒が生クリームと卵黄とパスタに絡んで、本当に美味しそう。店長って何でも作れるよね。今さらだけど。
 他のお客さんのレジを済ませ、先ほどの男性に声を掛ける。
「お決まりですか?」
「あれと同じのね」
 彼は彼女たちが食べているパスタを指差した。
「カルボナーラでよろしいでしょうか?」
「そうそれ。あと食後に、カプチーノとチーズケーキちょうだい」
「かしこまりました」
 このおじさん、そんなふうに見えないのに甘いものが好きなのかな。カルボナーラも美味しそうに見えたからオーダーしたのかな。何となく微笑ましい気持ちになって厨房へ入った。

 カルボナーラを食べ終わった女性客の支払いが済むと、ホールには先ほどの男性だけが残った。他のテーブルのお皿を片付けようとした私に、その男性が言った。
「君、有澤店長を呼んでくれる?」
「店長、ですか?」
「そう」
「少々お待ちください」
 店長を呼び出すだなんて、こんなことは初めて。名前を言っていたから知り合い?
 急いで厨房を覗くと店長は片付けをしていた。
「あの、店長」
「ん?」
「お客様が有澤店長を呼んでくれって」
「俺? 名前言ってたの?」
「そうなんです」
 タオルで手を拭き、私と一緒に厨房を出た店長が突然立ち止まった。
「あた」
 背中にぶつかっちゃった。すみませんと言おうとして彼の横に回り、見上げる。
 足を止めた店長は、今まで見たことのないような厳しい表情でホールを見つめていた。どうしたんだろう。小さく息を吐いて背筋を伸ばした彼は、黙って男性客の元に近付いていく。私は彼の後ろを歩き、人のいなくなったテーブルに行って途中だった食器の片づけを始めた。
「いかかでしたでしょうか?」
 おじさんの前に立った店長が頭を下げた。同時にテーブルを強く叩いた音が店内に響く。
「永志、いい加減にしろ……!」
 な、何? 今、永志って言った……?
「こんな、はした金にもならんもん作っとらんで、さっさと店を畳んで、ここを引き渡せ。約束まであと一年を切った。どうせそんな短時間では何も変わらないんだ。無駄な足掻きはよせ」
「まだ、時間はあります」
「永志、同じことじゃないか。近い将来、お前に私の全店舗の経営を任せようと言っているんだ。ここを私の店に変えれば、」
「お引き取り下さい。従業員もおりますし、これからいらっしゃるお客様のご迷惑にもなります」
「ふん。……死んだじーさんにそっくりだな、お前の頑固さは」
 伝票を掴んだ男性が席を立った。急いでレジに回る。

「千八百円になります」
「お嬢さんがチーズケーキを作ったのかな?」
 微笑んだ男性が、黒い革の財布から一万円札を差し出した。
「……はい」
「とても美味しかったよ。素晴らしい出来だった。だが」
 お釣りとレシートを私から受け取った彼は、店長に向けたものと同じ表情で言った。
「悪いことは言わん。早くここに見切りを付けた方がいい。あと一年待たずに、この店は無くなる」
「え?」
「ごちそうさま」
 この人、怖い。オーダーを受けた時は優しそうに見えたのに。
「ありがとう、ございました……」
 からりん、とベルが鳴り、男性は外に出て行った。
 一体誰? 何の権利があって店長と椅子カフェ堂に、あんなことを言うの?

 無性に腹が立つと同時に、なぜかどうしようもない不安に襲われた。